人間の人格は神も創造できない
劉会長の講義は無限のエネルギーがあるかのように、疲れを知らず(疲れはあると思いますが)、参加者の心霊に大きな覚醒のうねりを作りつつあるように思えます。
ただ、正直なところ、私には一つの懸念があります。
原理本体論が原理講論と同じような轍を踏んではいけないということです。
原理講論は二性性相の神様を紹介し、創造目的を明確にし、復帰の道をも明らかにしました。
しかし、にも関わらず、私たちは神様が願う次元で個性完成、家庭完成を果たすことができなかった。
これまでにも「心情」という言葉を知らなかったのではありません。
しかし、心情の人になれなかった。
今、本体論で改めて「心情」について教えられ、また「絶対性」の価値について学んでいます。
これが私たちの中で本当に実っていくには、これまで原理講論を学んできたと同じ学び方ではだめだと思われます。
ここに、今の私はまだ苦衷、混沌を感じています。
● 人間の人格は神も創造できない
人間の肉身は原理自体の自律性と主管性で完成できます。
しかし人間の霊人体、あるいは「人格」というものは、原理の力だけでは完成しない。
つまり、神様もそれを創造できないということです。
なぜでしょうか。
神様には「神格」があります。
それはどのように成長したのでしょうか。
神様にはご自身の神格を成長させてくれる外的な力は何もありませんでした。
ご自身の中にある心情が四大心情として、極めて内的な成長を遂げながら、神格が成長していったと考えなければならないでしょう。
他力的ではなかったのです。
人間は神様にそっくり似なければなりません。
ゆえに、人間の人格も他力的には成長できないのです。
それでは、人間はどのように自分の人格を成長完成させることができるのでしょうか。
それが責任分担です。
神様の干渉できない中で、自分の責任で自己完成しなければならない。
ですから、人間が完成するためには、神様はどうしても人間に責任分担を与えざるを得なかったと言えます。
ならばなぜ、その責任分担が、
「善悪の実を取って食べるな」
ということであったのか。
そこに、神様の「絶対性」という本質が関わってきます。
神様の神格の中に、「絶対性」ということが絶対不可分の要素として関わっているのです。
人間には5%の責任分担を与えた。
それを果たして完成すれば、それは神様をも完成させることになるのです。
「子女が父母を完成させる」
という根本公式の2番目の通りです。
それほどに自己完成とは誇らしいことですが、
「私は自分の力で完成した」
と言えるでしょうか。
言えないのです。
神様の95%の力が偉大です。
ですから、人間は自己完成したとしても、
「私は神様の愛によって完成しました」
と、どこまでも謙虚な姿にならざるを得ません。
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