神様は疑いを持たれるのか
神様は全知全能であられるので、人間始祖が堕落する可能性があるということを、当然知っておられた。
そう考えて、間違いではない。
知っておられたからこそ、思春期のアダムとエバに、
「取って食べるな。食べれば即座に死ぬ」
と警告をされたのでしょう。
しかし、
「彼らは私の言うことを守らず、いつか自分勝手な道に行くようになるかも知れない」
と、疑っておられたかどうか。
「知っている」のと「疑っている」のと、何が違うのか。
説明は難しいのですが、根本的な違いがあるような気がします。
私に初めて息子が生まれた時、
「この子は、今は無邪気で親の言うとおりについてくるが、思春期になれば道を外れるかも知れない」
と疑っただろうか?
一片の疑念も抱きませんでした。
原理を通して、人間始祖が道を外れたということを「知って」はいましたが、我が子に対して「疑う」という気持ちは、針の先ほどもなかったのです。
文先生の若き日の詩「栄光の王冠」に次のような一節があります。
人を疑えば、苦しみを覚え 人を裁けば、耐え難くなり 人を憎めば、もはや私に存在価値はない |
人を疑うと、疑っている自分自身が苦しいのです。
しかし、信じれば裏切られる。
それでは、信頼を裏切った相手が悪いのかというと、
「私が間違っていたのだ」
と、文先生の詩は続くのです。
ある信仰の古い方が、
「文先生という方は、弟子の方の報告を100%信じる方だ」
と言われるのを聞いたことがあります。
事実はどうか、私には分かりません。
しかし、あり得ることではないかという気はします。
疑えば、自分自身が苦しいのです。
疑ったとおりに相手が裏切ったとすれば、その疑いは正しかったと言えるかも知れませんが、疑っている時、それは自分の中で構築される虚構の物語なのです。
疑いが物語を作り、その物語によって、さらに疑いが深くなる。
実際に相手が裏切る前に、私自身がその相手を完全に信じられなくなっているのです。
私自身、「疑いが作る物語」に苦しめられているのではないかと、ふと思う時があります。
私だけではない。
私の周りの人たちも、そのほとんどが同様な「物語」を作り上げることによって人間不信を増幅し、それによって自分自身が苦しんでいるのではないかという気がします。
文先生はそういう物語を作らないと決めた方。
そして、おそらく神様も。
サタンからすれば愚かに見えても、神様は、
「私の子どもたちは、絶対に私を裏切り続けるということはない。必ずいつか戻ってくる」
と、100%信頼の「物語」を作り、信じておられる方。
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