イエス様には墓がない
原理講論の「イエスを中心とする復帰摂理」の項を訓読していて、
「イエス様には墓がない」
ということに、改めて思い至りました。
イエス様に先立つモーセも、カナンを目の前にしながらそこに入ることを許されず、無念の涙をもって死に、その死体がどこにあるか、杳(よう)として分からないままです。
イエス様は十字架で亡くなった後、安息日が過ぎるのを待つために、一旦仮の墓に安置されました。
ところが、安息日が明けて見に行くと、そこにはすでにイエス様の遺体がない。
一体、どこに、誰が運んでいったのでしょうか?
それは知る由もありませんが、なぜ神様はイエス様の死体を誰の目にも触れない所に隠されたのか。
神様のお気持ちも、私には計りかねます。
十字架で痛ましいほどに槍で突かれ、神様の聖体が無残に傷つけられた。
それさえ神様にとっては耐え難いことであるのに、イエス様の遺体が反対派の知るところとなれば、その墓まで掘り返されかねない。
せめて愛する息子の遺体だけは、人目につかないひっそりとしたところに、神様だけが抱いて、安息の眠りを与えたい。
私が勝手に想像することです。
しかし、そのことによって、この世でも人が死ねば小さくても墓くらいは建てて、近い家族や知人友人がお参りもするだろうに、イエス様にはそれさえもない。
何か、とても侘びしい思いになります。
もっとも、イエス様にとって、もはや朽ちていく肉身が問題ではないかも知れません。
霊的にはすでにサタンの不可侵圏に入られ、霊的な真の父の資格を復帰されたのですから、霊界からは権威を持って、地上の時以上に力強い働きができたとも言えます。
それにしても、霊人にとって、地上人がもっている肉身はどんなふうに見えるものでしょうか。
所期の目的を遂げらないままに肉身を失えば、
「あのような肉身が私にあれば・・・」
という思いがふつふつと湧いては来ないでしょうか。
今日は、私の妻の聖和11周年です。
こんな日に、イエス様の墓のことを思うのも、何か不思議なタイミングのような気がします。
昨夜は訓読した後、娘が、
「お父さん、明日はお母さんの昇華した日だね。どうするの?」
と言うので、
「君は何がしたい?」
と聞き返しました。
「私は、ピザが食べたい」
と、娘。
妻は特にピザが好きだったというわけではありませんが、こんな日くらい、素直に娘の願いを聞いてやろうと思い、今夕はめったに行かないピザショップに立ち寄り、2枚買ってきて食べたのです。
妻の墓は、我が家のすぐ横にあります。
地上では墓も持てなかったイエス様のもとで、霊界では妻も地上の時以上に思う存分、神様のために働けることを祈る思いです。
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