自体無自覚
「侍義」
「心身統一」
「他体自覚」
これらの概念は、お互い密接に関連し合っているような気がします。
最近、何度か李耀翰先生について書いていますが、李先生についての次のようなエピソードがあります。
ある集会で、誰かが先生に尋ねました。
「先生は心と体との葛藤がおありですか?」
すると、即座に、
「全くないです」
と答えられたそうです。
続けて質問が出ました。
「どうしたら葛藤がなくなるのでしょうか?」
「侍ればいいのです。侍れば、心と体が闘わなくなります」
というのが李先生の答えでした。
復帰摂理の最終的な時代は「侍義時代」となる。
原理講論のこの言説と合わせて考えると、侍義時代とは「侍る」ことによって人間の心と体とが統一されて、個性完成する時代である、と言えます。
「侍る」
とはどういうことでしょうか。
李先生によると、
「相手を肯定して、自分を否定することだ」
私たちが持っている堕落の性質は、「自分を肯定して、相手を否定する」要素を多分に持っています。
何か自分の心に叶わないことがあると、
「私の考えと行動は正しいはずなので、相手の考えと行動がおかしいのに違いない。この事態を改善するには、相手がその考えと行動を私のように変えなくてはならない」
と、ほぼ無意識の内に考えやすいのです。
侍るというのは、この考えを逆転することです。
この「相手を肯定して、自分を否定する」というのは、「他体自覚」にも通じるような気がします。
「他体自覚」とは、
「他(目の前の存在)を自分の(主)体とする」
ことです。
反対に「自体自覚」という概念もあり、それは、
「自分自身を主体とする」
ことです。
ですから、本物の「他体自覚」とは、「自体無自覚」とも言えるでしょう。
自分自身を自覚しない状態です。
例えば、神様と私の関係で言えば、
「神様、あなたの願いは何ですか? それを叶えて差し上げることが私の願いです」
という心の状態。
その時、「私」という自覚がないのです。
言い換えれば、「私」を意識しない状態です。
「私が良く見られるか、悪く見られるか」
「私が得をするか、損をするか」
「私がそれを好きか、嫌いか」
そんなことを何も意識しない、考えない。
「無我」という言葉があります。
「私を意識しない」という意味では「自体無自覚」に近い感じがします。
しかし、「自体無自覚」とは、同時に「他体自覚」ということです。
「他体自覚」というのは、明確に意識する「他者」(例えば神様)が存在するのです。
昨日のJr.STFの閉講式で、本部成和部の部長がこんな話をされました。
「皆さんが今回一生懸命頑張りましたが、はっきり言えば、この選抜試験に通るかどうかは、どうでもいいのです。問題は、皆さんがこれから『神様のために生きる人になるかどうか』なのです」
「今回、私の娘は合格できるだろうか?」
ということをいつの間にか気にかけていたことに、はっと気づかされました。
神様の願いよりも、自分の娘の合格を気にしている。
これは「自体自覚」ですね。
「自体自覚」から「自体無自覚の他体自覚」へ。
この転換がなされることを「心情転換」とも言うのでしょう。
これがまだ成されていません。
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