fc2ブログ
まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

自体無自覚

2012/06/04
瞑想三昧 1
calm

侍義
心身統一
他体自覚

これらの概念は、お互い密接に関連し合っているような気がします。

最近、何度か李耀翰先生について書いていますが、李先生についての次のようなエピソードがあります。

ある集会で、誰かが先生に尋ねました。
「先生は心と体との葛藤がおありですか?」

すると、即座に、
全くないです
と答えられたそうです。

続けて質問が出ました。
「どうしたら葛藤がなくなるのでしょうか?」

侍ればいいのです。侍れば、心と体が闘わなくなります
というのが李先生の答えでした。

復帰摂理の最終的な時代は「侍義時代」となる。
原理講論のこの言説と合わせて考えると、侍義時代とは「侍る」ことによって人間の心と体とが統一されて、個性完成する時代である、と言えます。

「侍る」
とはどういうことでしょうか。

李先生によると、
相手を肯定して、自分を否定することだ

私たちが持っている堕落の性質は、「自分を肯定して、相手を否定する」要素を多分に持っています。

何か自分の心に叶わないことがあると、
「私の考えと行動は正しいはずなので、相手の考えと行動がおかしいのに違いない。この事態を改善するには、相手がその考えと行動を私のように変えなくてはならない」
と、ほぼ無意識の内に考えやすいのです。

侍るというのは、この考えを逆転することです。

この「相手を肯定して、自分を否定する」というのは、「他体自覚」にも通じるような気がします。

「他体自覚」とは、
他(目の前の存在)を自分の(主)体とする
ことです。

反対に「自体自覚」という概念もあり、それは、
自分自身を主体とする
ことです。

ですから、本物の「他体自覚」とは、「自体無自覚」とも言えるでしょう。
自分自身を自覚しない状態です。

例えば、神様と私の関係で言えば、
「神様、あなたの願いは何ですか? それを叶えて差し上げることが私の願いです」
という心の状態。

その時、「私」という自覚がないのです。
言い換えれば、「私」を意識しない状態です。

「私が良く見られるか、悪く見られるか」
「私が得をするか、損をするか」
「私がそれを好きか、嫌いか」
そんなことを何も意識しない、考えない。

無我」という言葉があります。
「私を意識しない」という意味では「自体無自覚」に近い感じがします。

しかし、「自体無自覚」とは、同時に「他体自覚」ということです。
「他体自覚」というのは、明確に意識する「他者」(例えば神様)が存在するのです。

昨日のJr.STFの閉講式で、本部成和部の部長がこんな話をされました。

「皆さんが今回一生懸命頑張りましたが、はっきり言えば、この選抜試験に通るかどうかは、どうでもいいのです。問題は、皆さんがこれから『神様のために生きる人になるかどうか』なのです」

「今回、私の娘は合格できるだろうか?」
ということをいつの間にか気にかけていたことに、はっと気づかされました。

神様の願いよりも、自分の娘の合格を気にしている。
これは「自体自覚」ですね。

「自体自覚」から「自体無自覚の他体自覚」へ。
この転換がなされることを「心情転換」とも言うのでしょう。

これがまだ成されていません。

よろしければ1クリック!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 統一教会へ
にほんブログ村

【お勧め記事】
関連記事
スポンサーサイト



Comments 1

There are no comments yet.

ドラミちゃん

他体自覚と自体自覚について知ってからは、私の精神状態をとても楽にしてくれています。
ときには自体自覚の表れで過ちを犯してしまい、振り返らせてくれることもあります。
「私」を無くすということほど楽なことはないような気がします。
が・・・「神様のために生きる人になるかどうか」と問われたら、まだまだ自体自覚が芽を出してしまいそうです。

2012/06/05 (Tue) 21:33