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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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原理教室は原理を「学ぶ」場ではない

satori

地区本部より講師を迎えて、約5ヶ月ぶりに昨日から中級原理教室が始まっています。

初日における講師の開口一番。

「私はこの『原理教室』というタイトルに不満がある。これを変えてほしい。このタイトルのゆえに、参加者はつい『原理を学ぶ』と考えてしまうのです。本当はノートもパソコンも要らないのです」

この講師自身、これまでに30回以上原理教室を担当してきて、悟ったことがあると言うのです。

「原理教室は原理を『学ぶ』場ではない。一言で言えば『悟りを得る』場だと、私もある時悟ったのです」

「教室」
というと、どうしても机の上にノートを置いて何かを学ぶ、知識を頭に入れる、と考えてしまいやすい。

しかし、原理教室はどちらかと言えば、仏教の「座禅」に近いのではないか。
それが講師の実感だと言うのです。

座禅がどんな世界か、私はよく知らないので、実感的には分かりませんが、講師がそう言いたい気持ちは分かるような気がします。

これまでこの教会は「原理」というと、とても「教室的」に学んできた。
なぜかと言うと、「原理」はとても理論的に書いてあるからです。

しかしそうでありながら、文先生ご自身は、
「あなたがたは原理を頭で理論的に捉え過ぎるきらいがある。それで霊的に感銘を受けて信仰を持った人たちに比べると、従うべきかどうか、どうしても頭で考えてしまう」
というようなことを言っておられます。

講師が提起したもう一つのキーワードは、
真実になる
ということです。

「率直で、自分に正直になる」
と言ってもいいでしょう。

「分かることは分かる、分からないことは分からない、と正直に認める」
ということが大切だと言うのです。

それなら、私たちは「原理」を分かっているのか?
あるいは、そもそも神様を知っているのか? 信じているのか?
本当に心から喜んで暮らしているのか?

分かっているつもり。
知っているつもり。
信じているつもり。
喜んで暮らしているつもり・・・。

この最も肝心な点を、見ないようにしている。

原理は頭で分かっても、何にもならない。
原理にはもっと、核心的なものがあるはずだ。
それを感じていながらも、敢えて見ないようにしている。

最近は、瞑想をしようとすると、その核心的なものにしっかり目を向けるしかないという気がします。

「真実な自分」
「ありのままの自分」

それで、瞑想には覚悟が要るのです。

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