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侍る姿は美しい

kitasendo
haberu 

「侍る」
という内容に触れた講義を聞きながら、
侍る、というのは、美の対象としての生活だな
と思いました。

信仰生活の中には、その重要な要素として、例えば「礼拝」「十一条」「敬拝」「伝道」などがあります。
その一つ一つが「侍る」という内容を持っており、それは結局、神様に美をお返しする、ということに他ならない。
そんなふうに思うのです。

例えば、礼拝を捧げるとき。

綺麗な服を前の晩から準備するのです。
しかも父母だけではなく、幼い子どもたちにも同じように教えます。

「明日は何の日? 明日は神様にお会いする日だね。だったら、一番きれいな衣服を着てお会いしないといけないね」

そう教えておいて、夜の間に準備してあげ、子どもの枕元にたたんでおく。

そうすると、朝目が覚めて、子どもたちはその服を見て、
「ああ、今日は神様に会いに行くのだなあ」
と思う。

十一条を捧げるときは、ただのお金を捧げるのではない。
1ヶ月の給料が入ったら、その中の十分の一を初めに抜き出して、それを捧げるのですが、それもただ財布から抜き出して捧げるのではないのです。

できれば新札。
それがなければ、抜き出したお札にきちんとアイロンをかけて、シワを伸ばす。
そうして、特別に準備したお札を十一条として、神様に捧げるのです。

このようなことは、一体何を意味するのでしょうか。

形にはいろいろな違いがあるものの、つまりは「神様に侍る」ことです。
そして、「神様に侍る」とは、結局、「神様に美という喜びを感じさせて差し上げる」ことです。

人間の男女で言えば、男性は「愛の主体」であり、女性は「美の対象」だと言います。
だから女性は、夫の前に、いつも美しくなければならない。

美しくお化粧をし、変化のある服を着、愛らしい言葉を使う。
妻教育として、そのように言うことが多いのですが、「侍る」教育もまったく同じだと悟りました。

男性は愛の主体というけれど、神様の前には「美の対象」です。
神様の前には、女性の立場です。
だから、女性であれ男性であれ、最高に美しい生活をして、神様を最高に喜ばせて差し上げる存在にならなければならないでしょう。

礼拝にきれいな服を着ていくこと。
美しいお札を捧げること。

それらはすべて、美によって神様を喜ばせることです。

毎週礼拝を捧げることを神様が喜ばれるのでしょうか。
給料の十分の一を真面目に捧げることを神様が喜ばれるのでしょうか。

絶対的な心情世界に住んでおられる神様にとって、毎週日曜日に決まった席に座っている信仰者を見たいのではなく、その「美しい姿」を見たいのです。
給料の十分の一がほしいのではなく、その「美しい心」を見たいのです。

ある意味で、私たちはみな、女性の心を持つ必要があります。

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