統一教会の宝
昔、ある教会長が李耀翰先生の証をしてくれたことがあります。
ある日彼が散髪屋に行って、髪を切って帰ってきました。
それを見た李先生が、
「理髪師はどんな人だったか?」
と聞かれたのです。
「よく分かりません」
と答えると、
「なぜ分からないのか? 何も話さなかったのか?」
とさらに聞かれます。
「散髪してもらうと、気持ちが良くて、散髪の間中眠っていたんです」
と正直に告白。
すると李先生は、
「君は理髪師に関心がないのか? 彼がどんな悩みを抱えているのか、神様がどんな準備をしているか分からない」
最後の言葉は私の記憶がやや不正確ですが、そんな証を聞きながら、李先生の精神がいつもどれほどピンと張っているのかと考えたことを覚えています。
今回来日されたとき、こんなエピソードを聞きました。
愛知県のある公園には、昔から、多くのホームレスが住んでいます。
その公園に行かれたときに、ブルーシートの家がたくさんあるのを見て、気になり、
「彼らは、どうしてここにいるのか? 聞いてきなさい」
と言われたのです。
生まれた時からホームレスだったわけではないはず。
まともに働き、ちゃんと生活していた人が、いつ、なぜホームレスになったのか?
大半の人は、そんなことにまで関心を持つことはないでしょう。
もう一つ、こんなこともあったそうです。
李先生を乗せて車を運転しているときのことです。
李先生が運転手に、
「何を考えていますか?」
と、急に質問されました。
「トンネルを無事に通過することを考えています」
と言うと、
「そうではなくて、トンネルを苦労して掘った人たちのことを考えなさい」
と言われたのです。
どうしてこのような発想が出てくるのでしょうか。
私たちの心は、自分のこと、自分の好きなこと、自分の好きな人に自然に向かうようになっています。
しかし、み言葉を聞いたなら、私たちの関心は誰か他の人、自分の嫌なこと、自分の嫌いな人に向かわなくてはいけない。
それなのに、私たちの心はみ言葉を聞く前も後も、あまり変わっていない。
変わらない理由は、私たちの心が神様と切れたままだからであり、それゆえに、人との関係もよく結べないでいるからだと、李先生は言われます。
人との関係が切れているから、すぐに人を「味方」と「敵」に分けてしまう。
人との関係があれば、「敵」はいなくなる。
嫌いな人がいなくなる。
そうなると、仕事で髪を切ってくれるだけの理髪師も私の知り合いになり、ホームレスも私の家族になり、トンネルの奥には苦労して掘った人たちの姿が見えるようになる。
堕落によって「み言葉」と「実体」と「心情」がすべて分断されたと、文先生のお話にあります。
李先生を見ていると、文先生が、
「李牧師は統一教会の宝である」
と言われた意味が、少し分かるような気がします。
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