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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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沈黙の中の神

silence

主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。

その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。
しかし主は風の中におられなかった。
風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。
火の後に静かな細い声が聞こえた。
(『聖書』列王紀上 19:11)

心の中の沈黙に耳を傾ける経験を通して、私たちは神様のみ言を聞くのです。私たちは、神様の広大さを感じ取り、人類のすべての場面に対される、神様の無限の愛を感じ取るのです。お互いが自分のためばかりに生きる利己的な姿を御覧になり、泣いていらっしゃる神様の声を聞くのです。神様は、私たちの沈黙にお答えになります。
(文亨進『天和堂』p.37)

これまで宗教の歴史には、

① 修道者たちの禁欲的な宗教生活
② 家庭をもつ一般人の世俗的生活

の2つがあり、これらは両立できないもののように思われてきました。

しかし、統一教会員の生活では、この2つを完全に融合していかなければならないと、文亨進様は言われます。
そのためには、宗教的で霊的な訓練が日常生活の中に必要です。
と言うよりも、日常生活自体が宗教的で霊的な訓練とならなければならないのです。

では、日常生活の中でどのような訓練をすべきなのか。
今後、『天和堂』を参考にしながら、重要なポイントをいくつか取り上げてみたいと思います。

今日はその第1ポイント、
「沈黙」
について。

以前にも書いたことがありますが、祈祷は「神様との会話」ですから、「話す」ことと「聞く」ことの両方があります。
しかし実際の私たちの祈祷は、「話す」ことに大きく傾きがちではないでしょうか。

そこで、沈黙は「聞く」祈祷、すなわち瞑想において、欠くことのできない重要な要素となります。
沈黙のためには、まず五感を閉じなければなりません。

冒頭に引用した聖句は、イスラエル民族史に名を残す預言者エリヤと神様の出会いを描いた部分です。
エリヤに異教徒との戦いを命じた主は実に激しい現れ方をされるので、激しい方のように思われるのに、その主は激しい風の中にも、地震の中にも、火の中にもおられなかったのです。
すべての激しいものが過ぎ去ったのち、訪れた静寂の中に、細い声がかすかに聞こえてくるばかりでした。

これを比喩的に解釈すれば、休むことなく動き続ける私たちの五感の嵐が吹きすさぶ間、神様は姿を現されず、すべて騒乱が過ぎ去り、おさまった後の静寂においてこそ、神様の声が聞こえてくるということでしょう。

これを私たちの日常生活の中に訓練として持ち込まなければなりません。
日常生活の中には、どれほど雑事が多いでしょうか。

子どもの世話。
夫婦のやり取り。
生活の心配や将来への備え。

時間を取られ、心を悩ますことはいくらでもあります。

それをいかに制御して、沈黙の時間を持つか。
そこに私たちが取り組むべき、日常生活の中の修練があるのです。

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* by 日韓太郎
私は、祈祷をしながら多くの恵みを与えられ、
何度も、神様の愛と心情に触れて、涙を流し、
自らの人生の岐路とも言うべき重要な判断を、
祈祷の中で決断し、選択して来た者であり、
その決断と選択に、後悔した事はありません…

沈黙の中に訪ねて来られる神様の声を聞き、
ただ、涙が流れ、心の五官で感じ取る神様の導きに、
自らを委ね、信じ、従う事によって体験する、
敬虔で、神聖な霊的感覚は、神様の心情に共鳴、共感し、
通じた者だけが知る恩恵であると思います…
苦痛や災い、呪いにも似た逆境の中でこそ、むしろ、
神様の愛と祝福、守りと導きの恩恵は、大きく現れ、
失望させる事のない神様の愛と心情が臨む事を、
私は、何度も体験して来ました…

私たちは、神様の愛の御手の中にあり、
十分過ぎるほどの愛と心情が施されています…
しかし、悲しいかな、堕落した人間は、心を閉じ、
サタンの主管下にある人間を掴まえて摂理し、
守り、導く事が、どんなに難しいか、
それを理解しなければと思います…
沈黙の中にある神様の声ならぬ声を聞く時、
涙なしで、その場にいる事は出来ず、
神様は、かわいそうな御方だと思います…
それほど、神様と人間との間には、分かち合えない、
距離と隔たりがあり、その溝は深いのです…

故に、私たちは、自分の事ばかり思い煩い、
自分の事ばかり考える人間になってはいけないと思います…
まず、神様の立場を思って、沈黙を長く持つ祈祷をし、
神様を慰め、喜ばせて差し上げる心が、大切だと思います…
ちょうど、神様が、人間の立場を思って、
沈黙を長く持ち、忍耐を持って、信じ難きを信じ、
許し難きを許し、愛し難きを愛して、
私たちを慰め、喜ばせようとされて来られたようにです…
そんな事を感じながら、読ませて頂きました…

ありがとうございました…m(_ _)m

日韓太郎さんへ * by 管理人kitasendo
祈祷の恩恵は本当に大きいですね。
神様の沈黙には、言いたくても言えない神さまの忍耐もあるのかと、
コメントを読みながら感じました。
ありがとうございます。

コメント






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私は、祈祷をしながら多くの恵みを与えられ、
何度も、神様の愛と心情に触れて、涙を流し、
自らの人生の岐路とも言うべき重要な判断を、
祈祷の中で決断し、選択して来た者であり、
その決断と選択に、後悔した事はありません…

沈黙の中に訪ねて来られる神様の声を聞き、
ただ、涙が流れ、心の五官で感じ取る神様の導きに、
自らを委ね、信じ、従う事によって体験する、
敬虔で、神聖な霊的感覚は、神様の心情に共鳴、共感し、
通じた者だけが知る恩恵であると思います…
苦痛や災い、呪いにも似た逆境の中でこそ、むしろ、
神様の愛と祝福、守りと導きの恩恵は、大きく現れ、
失望させる事のない神様の愛と心情が臨む事を、
私は、何度も体験して来ました…

私たちは、神様の愛の御手の中にあり、
十分過ぎるほどの愛と心情が施されています…
しかし、悲しいかな、堕落した人間は、心を閉じ、
サタンの主管下にある人間を掴まえて摂理し、
守り、導く事が、どんなに難しいか、
それを理解しなければと思います…
沈黙の中にある神様の声ならぬ声を聞く時、
涙なしで、その場にいる事は出来ず、
神様は、かわいそうな御方だと思います…
それほど、神様と人間との間には、分かち合えない、
距離と隔たりがあり、その溝は深いのです…

故に、私たちは、自分の事ばかり思い煩い、
自分の事ばかり考える人間になってはいけないと思います…
まず、神様の立場を思って、沈黙を長く持つ祈祷をし、
神様を慰め、喜ばせて差し上げる心が、大切だと思います…
ちょうど、神様が、人間の立場を思って、
沈黙を長く持ち、忍耐を持って、信じ難きを信じ、
許し難きを許し、愛し難きを愛して、
私たちを慰め、喜ばせようとされて来られたようにです…
そんな事を感じながら、読ませて頂きました…

ありがとうございました…m(_ _)m
2009-12-31 * 日韓太郎 [ 編集 ]

日韓太郎さんへ

祈祷の恩恵は本当に大きいですね。
神様の沈黙には、言いたくても言えない神さまの忍耐もあるのかと、
コメントを読みながら感じました。
ありがとうございます。
2009-12-31 * 管理人kitasendo [ 編集 ]