自力は虚しい
被造物の創造が終わるごとに、神はそれを見て良しとされた、と記録されている創世記のみ言を見れば、神は自ら創造された被造物が、善の対象となることを願われたことが分かる。このように被造物が善の対象となることを願われたのは、神がそれを見て喜ばれるためである。
(『原理講論』p.64)
神様がこの世界を創造された目的は、
「それを見て喜ばれるため」
だとあります。
これを見ると、
「喜ぶ」
というところに重点があるように見えますが、実のところ、それは結果だと言うこともできます。
本当の目的は、その前にあって見過ごされやすい、
「見て」
というところにあるように思います。
「見て」
というと、何だか対象物から距離をおいて、客観的に眺めるというような印象を持ちますので、ここは、
「愛して」
と言い直したらいいと思います。
神様の創造目的は、
「創造した対象を愛する」
ことであり、その愛した結果として、
「喜び」
を感じるようになる、というのがもっと正確な言い方ではないでしょうか。
「見る」というと、対象との距離があって、「見る者」と「見られる者」とが別々になってしまいます。
「愛する」というときには、「愛する者」と「愛される者」との間には距離がなく、一体となります。
神様は1人でいたくなかったのです。
愛する対象がほしかったのです。
神様は何をするにも、1人ではなされたくない方です。
神様が一番最初に天使たちを創造されたというのは、神様の深い思いを反映しているように、私には思われます。
原理講論には、
「神は被造世界の創造と、その経綸のために、先に天使を使いとして創造された」(p.106)
と説明されています。
神様は天使以後の創造をすべて、天使たちと一緒になされたというのです。
創造そのものは、もちろん神様の能力によってのみ可能でしょうが、
「何をどのように創るか」
「もっと良く創るにはどうしたらいいか」
といったことなどについて、神様はいちいち天使たちと相談しながら創造されたのではないかと想像します。
神様が独りですべてを創り、それがいかに素晴らしく出来上がったとしても、おそらく神様の喜びは最高になり得なかったでしょう。
「これはすべて私の万能の力で造り上げたものだ」
といくら誇ったとしても、ともに喜んでくれる者はいません。
天使たちと一緒に創り上げてこそ、出来上がったものを見て、
「おい、お前たち、良く見てみろ。本当にうまくできたな。お前たちの協力と助言があったおかげで、もっとうまくできたのだ」
と、神様は言いたかったのではないでしょうか。
私たちも、何事かを成し遂げようとするとき、独りでやり遂げるのは、虚しいのです。
誰かと協力し、心が通い合う中で一緒に苦労すること自体が、私たちの心情の喜びとなるでしょう。
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人間は、神様にそっくり似せてつくられており、
神様に似る生活こそ、価値があり、意味があり、
喜びがある生活だと言えます…♪
反対に、堕落性で暮らし、神様とは、
似ても似つかない生活をすれば、虚しく、
そこに存在の価値や意味を見いだし、
真の喜びを感じる事は、出来ないでしょう…
自力が虚しく感じられるのは、そこに、
共に、喜び、愛し合い、分かち合う、
愛の対象がいないからであると思います。
神様が、如何に全知全能と言えども、
この共に、喜び、愛し合い、分かち合う、
愛の対象がいないなら、虚しく感じるしかないように、
人間も、そっくり似せてつくられているわけですから、
人間の喜びと満足は、決して一人では得られない事、
他者との関わりの中でのみ、喜びと満足、
幸せと言うものは語られるべきである事を、教えられます。
ありがとうございました…m(_ _)m