美は信用であるか
眠られぬ夜は明けて、茫然と雀の鳴き声を聞いていると、茶碗はいいのだ、俺という人間に信用がないだけだ、という考えがふと浮かび、突然の安心感でぐっすり寝てしまったそうだ。彼に信用がつくに従い、彼の茶碗が美しくなったことは言うまでもない。では美は信用であるか。そうである。 (「真贋」小林秀雄) |
骨董商「瀬津」の主人が語った実話です。
今では名の知れた骨董商となっている主人が青年だった頃のこと。
骨董商が集まる競りで、志野焼の素晴らしい茶碗を見つけます。
青年はなんとしてもそれを落としたいと思った。
6000円まで出しても構わないと腹を決めて臨みました。
「真贋」が書かれたのは昭和26年。
主人が青年だったというのですから、競りは多分昭和の初めでしょう。
当時、教員の初任給は50円程度でした。
入札したところ、3000円で落札しました。
ところが。
狂喜していると、先輩の骨董商から
「あれはどこの会でも300円を出たことがない」
と言われてしまうのです。
そんなはずがあるのか?
ところが、果たして、数日後、ある金持ちのところに持って行ったところ、見向きもされない。
しかし。
その茶碗は、青年の審美眼には、どうしても美しく見えるのです。
そうして一晩、じいっと茶碗を眺めていた時の描写が、冒頭の引用です。
「美は信用であるか。そうである」
と、小林は断じます。
「美は絶対的である」
とは言わないのです。
面白い、と思います。
原理に符合するでしょうか。
「創造本然の美は絶対的である」
と、原理は言います。
しかしその理由は、美の主体たる神様が絶対的であるからです。
その意味では、絶対者たる神様の「信用」のゆえに万物の美は絶対的である、といえるかも知れません。
万物が美しいだけではありません。
神様のみ言葉はなぜ善であるのか。
それは、神様が善である(という信用がある)からである。
しかし、善であり真であるみ言葉を、神様ご自身が語ることができません。
私がその身代わりに語らなければならないのです。
その時、私が語る神様のみ言葉がやはり善であり真であると受け止められるためには、私という人間に善であり真であるという「信用」がなければならない。
言い方を換えれば、私が語るみ言葉が善や真の力を持つためには、私自身がみ言葉の実体になる必要がある、ということです。
名もない青年が3000円で競り落した茶碗が、骨董商の信用がつくにつれて次第に美しくなった。
それと同じように、私が20代の時に語ったみ言葉よりも、50代で語るみ言葉のほうが、より善と真の力を持つようにならないとすれば、私という人間が変わっていないということです。
まさに、
「実体み言宣布」
です。
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