我々は喋り過ぎた
今夕開かれた集会で教区長が語られた講話の中に、
「誰でも、人から言われて『そうだな』と思ってやり始めたことは、最初はいいように見えても、長続きしない。それよりも、自分自身が祈ったり、御言を読んだりして悟ったことは、疲れずに長続きする」
というような話がありました。
その通りだろうと、共感しました。
先日、知り合いが教えてくれた 野口嘉則氏のメルマガの中にも、同じような指摘があり、それを何度も熟考しているところです。
そこには、ユージン・ジェンドリンという心理学者がカンセリングの効果の出方について調査した興味深い結果が紹介されています。
☆☆☆
心理カウンセリングを受ける場合、クライアントに目立った変容が起こる場合と起こらない場合がある。
その違いは何か、というのが調査の眼目です。
その結果、分かったことは、
「成果の出るカウンセリングでは、カウンセラーの質問に対してクライアントがすぐに答えを出せず、沈黙する時間が長い」
ということでした。
それに対して、なかなか成果のでないケースの共通点は、質問に対してすぐにクライアントが、
「そりゃあもう、悔しいやら、腹が立つやら、情けないやらで...」
というように、即座に答えが返ってくるということだったのです。
これはどういうことでしょうか。
クライアントが長く沈黙するというのは、自分の中で答えを一生懸命に探しているのです。
答えを探し出すために、その当時の自分の気持を振り返り、反芻し、自分の心の中で起こっている感情をじっくり感じ取っているのです。
しかし、その感情はすぐに適当な言葉として発することができません。
それで、「この気持をどう表現したらいいだろうか」と、一生懸命に言葉を探す。
その過程で、クライアント自身がより深い「気づき」に遭遇する。
そうすると、その「気づき」によって、クライアント自らが変容していくというわけです。
これは何かというと、自分を変えていく力は、いくらプロでも、カウンセラーになるのではなく、クライアント自身の中にある、ということです。
そのことを、プロのカウンセラーは熟知しているべきはずなのですが、どうしてもクライアント自身の内面で起こる「気づき」を待つことができず、つい「教えてしまう」ことがある。
プロですから、その分析は鋭い。
それを聞いてクライアントは「はっ」と思う。
「なるほど、そうなのか」と思う。
それも一種の気づきには違いないのですが、あくまでも「他者から与えられた気づき」なのです。
その気づきには、深さが足りない。
それで、自己の変容を起こせないということです。
だから、本当に優秀なカウンセラーはクライアント自身の「気づき」を忍耐強く待つ。
あるいは、そのような「気づき」が起きるようにうまく導き、サポートする。
☆☆☆
このような内容を読みながら、これは私たちが日々教会で行なっているゲストへの対応に、そのまま当てはまるなと思ったのです。
今日も1人のゲストに講義をし、その後しばらく話を聞きながら、自分がどれほどゲストの「気づき」を促せるかを、少し客観的に観察してみました。
すると、ゲストの気づいていくプロセスをなかなか待てない自分を繰り返し発見します。
つい、
「それは、こういうことじゃないですか」
「それは、こういうふうに考えたらどうですか」
などと言ってしまうのです。
これまでは、そういうことを特段まづいことと思って来なかったのですが、今よく考えてみると、こういう対応では、ゲスト自身に内面的、自発的な「気づき」が起こりにくい、ということが明瞭に感じられます。
ゲスト自身に自発的な「気づき」が少ないと、講師のアドバイスに依存してしまう。
それでその時は、
「いい話を聞いた。本当にそうかも知れない。その通りにやってみたらいいかも知れない」
と思ったとしても、本当に自己を変容するだけの力を持たない。
つまり、ゲストが教育を受けながらも、なかなか成長していかないという現象となって結果するのです。
どうもこれまでも私たちは、
「教えてあげよう」
と思うあまり、喋り過ぎてきたのではないか。
そして、こちらが喋れば喋るほど、ゲストの依存性を助長して、その成長を妨げている。
そのことに気づかなかった。
この辺りにも、今後、私たちの教育姿勢を変えていく余地が多いにあるように感じます。
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