本性は神様が育てる
1年ほど前から、娘のたっての願いで、週に2回塾に通わせています。
成績を見るかぎり、あまり役立っているようには思えないのですが、娘はほとんど休むこともなく熱心に通うので、できるだけ支援をしています。
先日、塾が終わって車で帰る途中、思いがけないことを話し始めました。
「私ね、これから受験しようとしている高校には、あまり魅力を感じないのよ」
受験予定の高校は進学校です。
3歳年上の息子も通い、相当に勉強では鍛えられました。
「何か、もっと違う学校で行きたい所でもあるのかい?」
「少し離れた町にキリスト教の高校があるでしょ? ああいうところもいいかなって思ったり...」
「キリスト教がいいってことかい? あそこは少人数制で、確か全寮制だったと思うな」
「キリスト教がいいというわけじゃないけど、これから入ろうとしている高校って、お兄ちゃんを見てても、勉強勉強じゃない? 私って、それほど頭がいいわけじゃないし、何だか、机に向かって勉強だけしていくのって、面白くないし、それだけでいいのかなって...」
「いわゆる授業の勉強だけじゃく、もっといろいろな体験もしてみたいということかな?」
「そうね。人生って、勉強だけじゃないでしょ? 勉強だけが役に立つような気がしないし」
「それはそうだね。お父さんの同級生でも、勉強はあまり出来なかったけど、卒業したら会社を興したりして活躍している人もいるしね」
「そうでしょ? でも、今から言っても、もう遅いものね。別に今から行く高校が嫌というわけじゃないのよ。でも、それ以外の道もあるかなって、もう少し早く考えていたらよかったと思う」
そんなふうに言いながら、娘はやはりちょっと寂しそうな、一抹の後悔を拭い切れないようなふうでした。
私も娘がそんな考えをしているとは、あまり思ってもみなかったのです。
そして、昨夜、またいつものようにコタツで向かい合って私はブログ、娘は受験勉強をしている時、娘が話しかけます。
「ねえ、教会では何かボランティアのような活動はしないの?」
「ボランティアなら、特に去年の3月11日以来、継続して活発にやっているよ。青年たちが交替で東北に行って、被災地の支援活動をしている。その他にも、海外ボランティアもある。毎年夏には、カンボジアに行って1週間くらいの活動をやっているよ」
「私、何か困っている人を助ける活動をしたいのよ」
「へえ、そんなことを考えてたんだね。それはこの前、アフリカの子どもたちが食べるものがなくてたくさん死んでいくという話を授業で聞いてから、そういう気持ちになったのかい?」
「その話を聞かなかったとしても、私はそんなふうに考えるようになったと思う」
「高校生になったら、もしかしてそういうボランティアに参加できるようになるかも知れないね。君が本当にやりたいのなら、お父さんはできるだけ応援してあげるよ」
これから娘は、多分、進学校に入り、大学を目指して勉強を続けるようになるでしょう。
しかし、机に座っての勉強だけでなく、できるだけ外に出て、雨に打たれ、埃にまみれて、誰かのために汗を流す、そういう体験をできるだけたくさんするように、環境を準備してやりたいと思うようになりました。
本当は、娘がこんなことを言い出す前から、親として「人のため、神様のため」に働く活動に導いていやる配慮があってしかるべきでした。
娘の心は、私の知らないところで、確実に育っているのだなと感じます。
神に向かう本性があるのなら、それを育てるのは神様です。
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