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ご飯を食べる理由

kitasendo
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私はいつも空腹でしたが、いくらおなかが空いても、自分のために食べることはしませんでした。ご飯を食べるときには、はっきりした理由がなければならないと考えました。それで食事のたびに、おなかが空いた理由を自らに問いただして見ました。
「本当に血と汗を流して働いたのか。私のために働いたのか、それとも公的なことのために働いたのか」
と尋ねてみました。
ご飯を前にするごとに、
「おまえを食べて、きのうよりもっと輝いて、公的なことに取り組もう」
と言うと、ご飯が私を見て、笑いながら喜んだのです。そんなときは、ごはんを食べる時間がとても神秘的で楽しい時間でした。
(『平和を愛する世界人として』p.83)

文鮮明先生は若い頃、ごはんを食べるたびごとに、おなかが空いた理由を自らに問いただしたと言われます。
「自分のために働いておなかが空いたのか。それとももっと高い目的のために働いておなかが空いたのか」

そのように問いただして、
「より高い目的のために働いた」
と言えないときには、いくらおなかが空いたとしても、食事をしなかった。

この自問は、究極的には、
私は一体何のために生きているのか?
という自問になるでしょう。

しかし、そこまで一気に行かなくても、これから何かの行動を起こそうとするとき、
「私は一体何のためにそれをしようとしているのか?」
と、いちいち問いただせば、これはかなり緊張した生き方になりそうです。

「何のために、今朝こうして起きるのか?」
「何のために歯を磨き、顔を洗って、教会に出かけるのか?」
「何のためにこの仕事をし、講義をし、家に帰り、食事を作って、家族で一緒に食べるのか?」

このように自問していったとき、究極的には一体何と答えたらいいのでしょうか。

自分でも知らない内に生命をもらって生きている自分がこうして自問するのですから、私に生命を与え、私を存在せしめた神様に聞いてみるしかありません。

「神様、あなたはなぜ、この私をこのように存在せしめたのですか?」

文先生の御言を見ると、人間が追求する基本的なものが4つあります。

① 権力
② 知識
③ 富
④ 愛

しかし、この4つの内、最初の3つは神様にとってどうでもいいものです。
神様は全知全能の創造主であり、知識の大王なので、そんなものは必要ないのです。

ただ、4番目の愛だけは、神様の力で創ることができない。
また、愛に伴う「喜び」というものも、神様独自に創ることはできません。

ゆえに、神様が何らかの行動を起こそうとされるときの動機(目的)は、愛と喜び以外にないということになるのです。
私を存在せしめた目的も、それ以外にはあり得ません。

考えて見れば、私自身、何らかの行動を起こす時の最も深い動機は、やはり愛と喜び以外にはないように思えます。

今朝起きるのも喜びのため、歯を磨いて仕事に出かけるのも喜びのため。
誰かと接し、誰かのためにしようとするのも、喜びのため。

権力や知識、富のためにそれをするとすれば、どこか心全体が満足しないのです。
そこはかとない虚しさが、心の中で膨れます。

私の今日は、喜びを得た1日だったか。
神様と共有できる喜びを持てた1日だったか。

毎日自問しなければならないのは、そのことです。

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