創造における信念と原理と御言
ヨハネによる福音書を見ると、その冒頭に、神様は御言によってこの世を創造されたとあります。
しかし、一体どんな御言で創造されたのでしょうか。
御言から一体どのようにして物質が生じるようになるのでしょうか。
文先生によれば、
「このようになれ!」
と言って簡単に、妖術を使うように創造できたのではないというのです。
あらゆる精誠を尽くして、自分の一身をすべて投入して創造されました。
それで、創った被造物に対して愛が出るようになるのです。
神様にとっては、「創造する」ということと「愛する」ということは、まさに一体不可分なのだと言えます。
創造の経緯を、文先生の説明にそって、もう少しだけ具体的に見てみましょう。
創造の出発点には、神様ご自身の「信念」がありました。
「必ずこのようなものを創造し、考えた通りのものになる」
という信念です。
この信念は、具体的な内容を土台としたものでなければなりません。
漠然としていてはだめなのです。
その具体的な内容が「原理」です。
このような原則に従って、このような結果が出てこなければならないというのが「原理」です。
つまり、神様は「必ずこのようになる」と信じる立場で、原理的な内容を通じて、この世を創造されたのです。
その信念と原理が一致し、そこに再び「実体」が一致する瞬間が、創造の瞬間です。
その信念に基づき、原理に合致する実体を造るためのものが「御言」です。
それで、創造の具体的な「設計図」と言えるものが「御言」だと言うことができます。
「人の目はこのようになり、鼻はこのようになる」
という具体的な図案です。
このように考えると、ヨハネによる福音書で言う「御言」というものの中には、「信念」「原理」「御言」などがすべて合わせて表現したものだと言えるように思います。
文先生も説明の都合上、いくつかに分けておられますが、神様の中では「信念」も「原理」も「御言」も渾然一体であって、分けることはできないものでしょう。
「信念」が「原理」であり、「御言」の中に「信念」があります。
私たちが何かを成し遂げようとする場合も、この3つ、「信念」「原理」「御言」が必要です。
私たちが「御言」を訓読するとき、その中には神様の「信念」も「原理」も入っていると見ることができます。
それで、私たちの再創造が始まるのです。
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