私が障害だった
死ぬ日までに訓読会を千回できなければ、夜を忘れてでも一生懸命にやってみてください。それに比例して霊界の基盤が築かれるのです。自分が訓読会を10回すれば、10回天の前に悔い改めて涙したという事実になるのです。 (『御言訓読と霊界動員』p.28) |
初めてこの御言を訓読した時、その意味がよく分かりませんでした。
どうして訓読することが悔い改めて涙したという事実になるのか。
ただ訓読するだけでも、それを悔改めの条件だと、神様が認めて下さるというのだろうか。
しかし、何度も繰り返し読んでいる内に、少し考えが変わってきました。
訓読すればするほど、実際に悔い改めざるを得なくなるのです。
訓読すればするほど、「訓読する御言」と「訓読する私」との間の隔たりの大きさを痛いほどに感じるようになるからです。
これまでその御言を、どれほど軽視、冷遇してきただろうか。
読みたければ読み、気が向かなければ読まない。
原理講義は頭の中に入っているので、いつでもできると考える。
いつも「自分が主体で、御言が対象」という傲慢な態度でした。
ある方のブログで、文先生の第一弟子である金元弼先生のインタビュー記事を読みました。
私の名前で日本や英国で本が出版されています。ところで、私はそれらの本を一度も読んだことはありません。自分の足りなさを思い出すので、読みたいとは思わないのです。私は、まだ神様を心配させ、真の親を心配させるサタンのような者だと思って生きているからです。 |
私自身、教区長の時代に一度、金先生を教会にお迎えし、接待させていただいたことがあります。
あくまでも文先生の代身者として来たという立場を堅持され、ある種の権威をお持ちなのですが、その一方で、こんなに低くなっていいのかと思うほどに謙虚なのです。
その時の印象から、上の言葉には一切の虚飾がないと思います。
思えば、私は金先生よりもはるかに頭が高く、傲慢でありました。
「私は神様をどれほど心配させているサタンのような者か」
と思って生きてはきませんでした。
私のブログも、下手をすると、私を神様から遠ざけてしまう材料になりはしないかと怖れます。
現在、日本の教会では、これまでの黒板講義から「チャート式訓読講義」へと、静かに、しかし着実にシフトしつつあるようです。
これは、少し前まで私が感じていたよりも、はるかに大きな変革の動きとなるのではないかと感じます。
上級チャート原理講師養成セミナーに参加した、ある教育担当者は次のような体験を告白しています。
私が思っていたのは、私が主体であり、み言が対象でした。私はみ言原理を障害、壁だと思っていたのです。しかし、私自身が壁だと思い、午前中の瞑想の時に神様に尋ねました。み言が主体であり、私が対象であり、私が障害であったと伝えた時、光に包まれたように感じ、それもまた初めての瞑想体験でもありました。 |
「原理は難しい。初めての人に原理講義は分かりにくい」
そう考えて、「御言が障害だ」と思ってきたのです。
しかし悟ってみれば、障害は「御言」ではなく、「御言が障害だ」と思っていた「私自身」であったのです。
昨年聖和された櫻井設雄前会長は、息を引き取る間際まで日本の教会の行く末を深く心配されていたそうですが、上のような教育者が確実に増えていけば、日本の教会にはこれから大きな希望がある。
そのような気がし始めています。
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