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ベテラン講師はなぜうまくいかないのか

kitasendo
チャート講義 

今から2年近く前、中級チャート原理講師認定修練会に参加した時のことです。
その時の参加者は、大半が教育担当者でした。

修練会では、模範講義を聞いたり、自分で繰り返し講義演習をしたりした後、毎日講義試験があります。

教育担当者ですから、講義はお手のもの。
しかも自分独自の講義ではなく、チャートを読む講義ですから、難しくはない。
誰もが難なく1回で合格・・・と思いきや。

中の1人が、何度講義をしても、
「ダメ。やり直し」
と厳しい判定を受けるのです。

彼は教育者としてはベテランの部類。
恰幅もよく、風格があり、声にも力がある。
その彼になぜ合格判定を出さないのか?

審判者の評はこうです。

「あなたは講義のベテランでしょう? その感じが出過ぎていてダメなんです」

講義なのに講師としての感じが出過ぎるとダメ?
どういうことだろう。
その時は、何となく分かるようで、しかし、はっきりとその意味が呑み込めませんでした。

最近、私自身が原理教室を再開してみて、あの時の審判者の意図が少し分かるようになった気がしています。

原理教室の主体は、講師ではないのです。
あくまでも「御言」が主体であり、見えない神様が主体です。
私たちがその御言に深く接する度合いに応じて、神様による「再創造」が始まるのです。

そんなことは、これまでの原理講義も同じではないか?
そう思われるかも知れません。

確かに、そうでないといけないのです。
しかし実際には、そうではなく、講師が主体になっていることが(意外と)多かった。

いや、他の講師を巻き添えにしては申し訳ない。
少なくとも、私自身を振り返ってみると、そう認めざるを得ないのです。

審判者が言った「講師の感じが出過ぎてはダメ」という意味は、
講義は私が主体だ
という意識が強いとダメだということではないかと思います。

「講義は私が主体だ」と思う講師は、講義を「自分の言葉」でやろうとします。
骨組みは原理に違いないのですが、それを解釈したり、分かりやすい喩えを考案してみたり。
それを講師自身の「知恵」でやろうとするのです。

その「知恵」をもって、講師は受講者の主体になり、受講者を主管しようとする。

いや、これはやはり、「講師」一般として論じるべきではないですね。
あくまでも私自身を正直に振り返ってみての分析です。

原理教室を担当しながら、知らず知らずのうちに、昔ながらの習慣性が出て、「自分の言葉」が出てしまう。
ついつい、解説が長くなってしまう。
「自分」を抑えることが、存外に難しいと感じるのです。

これまで私は、
「自分という意識が出たら、講義はうまくいかない」
ということは感じていました。

しかしそれでもやはり、「自分」があったようです。
講師の「傲慢」があったのを否定できません。

2年前の修練会では、私はあまり酷評されずに合格をもらったのですが、今考えると冷や汗が流れる思いです。

「あなたは、自分がそれなりの講師だと思っているでしょう? それが出過ぎてはダメです」

そう言われても仕方ない姿だっただろうと思います。
「それなりの講師」は卒業しなければダメです。

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くよん

なるほど本当にその通りです

いやー、胸にしみますね~。

私自身も講義をするときに、

「講義で出会った神様は忘れられない。あのときは本当に感動でだった。

その時の講師は・・・えーっと、誰でしたっけ??」

と思ってもらえることを意識して講義してきました。

しかし、

実際に「無」になり、「通過体」となるのは簡単ではないですよね。

2012年01月16日 (Mon) 10:46
kitasendo
Admin:kitasendo