訓読による御言の循環
「訓読」
という2つの漢字を分析すると、左側の言偏は共通していて、右側が違います。
「訓」は「言偏の川」。
「読」は「言偏を売る」。
文先生の説明によると、
「訓とは、川の水が流れるのと同じ」
ということです。
これは、川の水が流れるように、御言が循環することを意味します。
川の水は流れて、海に注いで水蒸気となり、天に昇って雲となり、再び地に降り注いで地を潤します。
循環することによって、この地上に緑地帯を作るのです。
このような循環運動がなければ、地上はすべて砂漠地帯になってしまいます。
これは、私たちの心霊世界も同じだと、文先生は言われます。
御言が繰り返し循環運動することによって、その恩恵で、すべての家庭、つまり私の家庭だけではなく、息子娘の家庭も隣近所の家庭も、そのすべてが潤うようになるのです。
川の流れも、初めは小さな水源地から出発するように、私たちの訓読会も私一人の訓読から始まります。
たとえ初めは一人であっても、くり返しくり返し訓読を続けることによって、御言の循環運動を起こし、私の家族の心霊世界を緑化し、さらには親戚、地域の人たちの心霊世界までも緑化していくようになります。
一方、「読」とは「御言を売る」ということです。
御言を自分だけで持っていてはいけない。
自分だけで持っていれば、それはやがて腐ってしまいます。
それは大きな罪です。
だから、御言はどんどんと人に分け与える。
売ってもいいけれども、お金をもらえなければ、ただでも分けてあげる。
そのようにすれば、御言はどんどんと流れ始め、周辺に広がっていきます。
文先生の説明を聞けば、結局、「訓」も「読」も同じ意味だということが分かります。
御言は自分だけで持つのではなく、周辺に流し、拡張していく。
御言が流れれば流れるほど、その恩恵を受けた人たちは、その心霊世界が緑化されていくのです。
今、訓読会を一番熱心にしている人は誰でしょうか。それは神様です。その次がお父様であり、次がお母さまです。 (『御言訓読と霊界動員』p.20) |
御言を最も熱心に流し、拡張しようとしておられるのが、他ならぬ神様だというのです。
私たちも支流の川として、できるだけその水を四方に流さなければなりません。
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