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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

神は信仰者の何を見るのか

2011/12/30
信仰で生きる 0
よせふ 

信仰の伝統を相続する
という観点から、聖書に描かれる中心的な信仰者たちを見るとどうなるだろうかと、ここしばらく考えています。

最初の人アダムは、信仰基台を立てられず、御言の実体となれずに堕落したのですが、彼の次男アベルは神様への供え物を信仰的に成し遂げました。
父親が神様の前に大きな過ちを犯したにも拘わらず、その息子がそれを償って信仰を取り戻したというのは、よく考えると、相当に凄いことです。

一体誰が、どのようにして、アベルの信仰を育てたのでしょうか。

ノアは神様の命令によって、巨大な箱舟を山の上に建造するという信仰的な偉業を成し遂げた人です。
彼は、「神様の指示を受けて神様のために働けることが嬉しかった」と証言しています。

しかし、残念なことに、彼の信仰を息子に相続することができませんでした。
特に、次男のハムは、信仰者である父親との間にかなりの葛藤を持っていたように感じられます。

箱舟を造る間、この父子の関係がどのようであったのか、詳細なことは聖書に描かれていません。
しかし、これは私たちの生活にも密接に関連する問題であるだけに、突っ込んだ考察が必要だろうと思います。

アブラハムは一人息子のイサクを、非常にレベルの高い信仰者に育て上げました。
父親が自分を燔祭として捧げようとしていることを察知しながら、それに身を委ねたのです。

霊界からの証言によると、
「父親が私を供え物として捧げようとしたことを誇りに感じた」
とも言っています。

イサクがなぜこれほど純粋で高い信仰を持ったのか。
これもまた、深く考えてみたい問題です。

イサクの次男ヤコブもまた信仰者でしたし、そのまた息子であるヨセフも信仰者でした。

ヨセフは腹違いの兄たちによって奴隷商人に売られ、エジプトで辛酸をなめますが、自身の人柄と夢解きの能力によって、エジプトの総理大臣にまで登りつめます。
そこへ、弟とは知らず、兄たちが食料を求めてエジプトにやって来た時、ヨセフは初め、正体を明かしませんでした。

そして、その兄たちが末っ子のベニヤミンを連れて戻ってきた時、初めて、自分が売られたヨセフだと明かします。
しかし、その時の彼の言葉は、兄たちを責めるものではありませんでした。

私をエジプトに送ったのは、主なる神であって、お兄さんたちではありません。私を逸早くエジプトに送って、家族を迎える準備を神はなさったのです」

このような思考ができるのは、普通の人間ではありません。
ヨセフの信仰は、ただ神様を信じるというレベルの信仰ではなく、思考そのものがすっかり神中心になりきっています。

この後、モーセ、洗礼ヨハネなど、聖書歴史の主要人物も続きますが、今日はこの辺に留めます。

神様が人類史の最初から導いた、信仰の主流に参与する人物たちの大きな課題は、何だったのでしょうか。
自分自身が神様に絶対的な信仰を堅持するということは言うまでもなかったでしょう。

しかしそれと同様に、あるいはもしかしてそれ以上に重要だったのは、その信仰を自分の子孫にいかによく相続するかということだったように思います。
なぜなら、いかによく信仰の基準を立てたとしても、それが自分一代で終わってしまえば、神の復帰摂理は継続も発展もしていかないからです。

従って、神様の視線も、召命を受けた人物たちがその信仰をいかに子どもたちに相続するかという点に注がれていただろうと思います。
それは、今日の私たちにおいても、まったく異なるところがないはずです。

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