信仰の伝統を相続する
冬休みに入ってすぐ、クリスマスの期間に高校生の修練会が行われ、我が教会から2人の高校生が参加しました。
ちょうど冬寒波が襲来した時であり、研修所は山の中だったので、往復の道を心配したのですが、幸い雪に悩まされることはありませんでした。
私が送り迎えをして、久しぶりに若者の修練会の雰囲気を味わいました。
高1の女の子は、教会長の長女。
Jr.STFにも入っている、模範的とも言える二世です。
今回の修練会も自分から希望して参加したほどで、原理講義、主の路程を聞きながら、涙をずいぶん流していたと、班長から聞きました。
もう1人は、高2の男の子。
サッカー部に入って、ふだんはあまり教会学校にも顔を出せない子ですが、素直な性格で、今回は親の勧めで参加。
人間関係に少し消極的なところがあるので、馴染みのない環境を心配していましたが、迎えに行ってみると、それはまったくの杞憂でした。
家に帰ってからも、
「すごく良かった。また参加したい」
と話したそうです。
こうして参加した子はいいのですが、一方では、親の熱心な勧めにもかかわらず、結局最後まで首を縦に振らなかった子もいます。
原理には、人の心を深く動かす力がある。
若い二世の心は、特にその力に敏感でもある。
ですから、若い時に、集中的に原理を学ぶ修練会に出てみるというのは、とても効果的だと思います。
しかし残念ながら、すべての二世が参加するわけではない。
今回の修練会には40名弱の高校生が参加しましたが、おそらくは、全二世の1割にもならないかも知れません。
修練会に参加するかどうかの前に、その根底にもっと基本的な問題が横たわっているのだろうと思います。
それを、
「信仰の伝統を相続する」
という問題として、私は最近、深刻に考えるようになりました。
旧約聖書を読むと、モーセに率いられたイスラエル民族は奴隷の苦役から脱して、故郷のカナンへ向かいましたが、不信仰が続き、最後にはカナンを目の前にしながら、砂漠でほぼ全滅したとあります。
しかし、モーセの跡を継いだヨシュアをリーダーとして、二世たちが団結し、見事カナンへ攻め込み、入植を遂げるのです。
一世においては40日のカナン偵察に失敗したのに、二世はそれを償い、信仰的な報告によって、民族全体の士気を一気に高めました。
これを見ると、一世たちは信仰を失いやすい、箸にも棒にもかからない輩たちという印象を受けますが、たとえそれが事実に近いとしても、二世の信仰教育には成功したと言えそうに思います。
彼ら一世たちは、自分たちの子女をどのように信仰教育して、自分たち以上の信仰を持つように育てたのでしょうか。
砂漠を放浪する中では、修練会を開催することもできなかったでしょう。
原理のような、見事に体系化された教えもなかったでしょう。
そう考えると、一世には相当な信仰があったと考えるべきかも知れません。
私には信仰的に捉えがたいことでも、私の子どもは信仰的に受けとめる。
私以上に、深く真剣に祈る。
そういう子どもをいかに育てることができるか。
それが、私にとっても、教会全体にとっても、喫緊の重要事項だと思えます。
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