限りない孝子の道
先生と皆さんを比較すれば、先生は、神様の前に皆さんよりも孝子です。なぜならば、今まで、生涯を捧げてこのような仕事をしてきたからです。 しかし、私が孝子の道理を果たしたとは夢にも思っていません。歩めば歩むほど足りなさを感じます。孝子の道理、忠臣の道理を果たしたと思う人は、そこで孝子や忠臣としては終わりです。 「私は孝子なのに、私は忠臣なのに、なぜ分かってくれないのか」と言って抵抗する人は、その峠から後退する人です。 (天聖経「真の孝の生活」p.2300) |
文先生はしばしば「孝子」「忠臣」という話をされるのですが、ここで言っておられる内容は「孝子の道」「忠臣の道」に限らない、普遍的な原理に通じるのだろうと思います。
文先生ほど神様の復帰摂理にその生涯を投入した方はないと思いますが、それでも「足りなさ」を感じると言われるのはなぜでしょうか。
真の愛の特性の一つは、
「与えたことを忘れる」
ということがあります。
これは言い方を変えれば、
「与えても与えても、まだ与えたりないと感じる」
ということでしょう。
真の愛を追求する道は、どこまで行っても、どこまで与えても、「私はまだやり切っていない、まだ与え切っていない」と感じるもののようです。
文先生は、どこまで投入されたのでしょうか。
いくら七十、八十になるまで孝子の役割を果たしたとしても、青春時代に父母のために生命を捧げた孝子にはかないません。(同上 p.2298) |
文先生は九十を過ぎておられますが、実は青春時代にその生命を父母である神様に捧げた人以上です。
というのは、その人は自分の生命を1回だけ捧げたのに対して、文先生は「七死」された方だからです。
ただ「死」に終わらず、「復活」されたので、九十まで生きておられるのです。
そこまでされながらも「足りない」と言われる方の前には、何も言えませんが、私たちも何かをやり遂げたと思った時、
「これだけやったのに、なぜ分かってくれないのか」
と思えば、そこで私の忠孝の道は止まってしまうということを肝に銘じたいものです。
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