良心を泣かせるな
10日ほど前から自叙伝書写の御言を変えています。
「私は今、正しく生きているか」
文鮮明先生の自叙伝『平和を愛する世界人として』の中に、次のようにあります。
良心が涙をぽろぽろ流して泣く声を聞いたら、その時にしていることはすぐに止めなければなりません。良心を苦しめることは、自らを滅ぼすことだからです。良心を悲しませることは、結局、自らを悲しみに陥れることです。(p.234) |
「良心」についての文先生の定義は画期的なものです。
「良心とは、神様が1人1人に与えてくださった『第二の神』である」
第二の神はすべての人間の中に臨在するのですから、人間の数ほど存在する、第一の神様の分身だとも言えます。
分身ですから、第一の神様とは明らかに別の存在であり、主体性を持っています。
それで、文先生は、
「良心は両親に優る、先生に優る、神様に優る」
と言われるのです。
従って、良心はこの世の創造主たる神様ではないものの、私という人間を神様に代わって愛し導いてくれる、絶対的な主体だということになります。
また、私という人間を完成に導く「私に対する創造主」だと言ってもいいでしょう。
そのような良心を苦しめ、悲しませることは、結局、自分自身を破局に陥れることだと言うのです。
私の愛読ブログの一つである「内田樹の研究室」で紹介されていた名越康文氏の言葉。
「抑鬱的、攻撃的な気分で下された決断は、必ず間違う」
ネットは多くの利便を私たちにもたらしてくれましたが、その一方で、匿名による他者への誹謗、その心身を耗弱させる発言が、歴史上かつてないほどに飛び交うようになりました。
そのような言葉を、内田氏は「呪いのことば」と表現しています。
呪いの言葉は人を呪うようでありながら、巡り巡って、必ず自分に戻ってきて、自分を攻撃するようになる。
それが、名越氏の言葉の意味と通じます。
「抑鬱的、攻撃的な気分で下された決断」が「事実認識や論理性」において「必ず間違う」という意味ではありません。
そうではなくて、そのような決断で下された言葉を発した人の人生は、必ず不幸な状況へと追いやられる、という意味なのです。
これを名越氏は「心理学的経験則」に則って断定しています。
おそらくこれは、単に心理学的な経験則に留まるものではなく、創造原理に沿って考えても正しいことだと思います。
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