文先生を騙したのは誰か
だまされても、信じなければ 裏切られても、赦さなければ 私を憎む者までも、ひたむきに愛そう 涙をふいて、微笑んで迎えるのだ だますことしか知らない者を 裏切っても、悔悟を知らない者を |
文先生が16歳の頃に書かれた詩「栄光の王冠」の一節です。
教会では、朝の初めによくこの詩の朗読を流しながら、しばらく瞑想をします。
今朝もそれをしている時、私ははっとあることを悟りました。
文先生は「だまされ」「裏切られ」「憎まれて」いると言われています。
文先生を「だまし」「裏切り」「憎んだ」のは、一体誰なのか?
それは、他の誰でもない、
「私」
ではないのか。
もちろん、文先生が16歳の頃、私は生まれてもいません。
しかし、瞑想は時空を超越します。
これまで私は、文先生を騙したのは、その当時、実際に文先生と関わった人たちのことであり、私はそんなことなどしていない、と思い込んでいたのです。
今朝、目が覚めた時から私の心にかかっていたことがありました。
「文先生を真の父母と言うのだが、私はその方を自分のお父さんとして、本当に愛してきたのだろか?」
自分のお父さんとして慕い、受け入れてきたのか? と問うと、心の距離の大きさを感じざるを得なかったのです。
その距離のゆえに、私はこれまで文先生を「だまし」ても「裏切って」も「憎んで」も、それに痛痒を感じていなかった。
「やります」
と言いながら、やらなかったこと。
「守ります」
と言いながら、守らなかったこと。
そんなことが、どれほど多かっただろうか。
そうでありながら、
「だましている」「裏切っている」「憎んでいる」
という自覚さえ、ほとんどなかったのです。
しかし、そういう者を前にして、文先生は、
「裏切った者らを愛したとき、私は勝利を勝ち取った」
というような熾烈な闘いをしておられた。
瞑想の中で、次に浮かんできた場面は、津波に襲われて、まともな家が一つもないほどに瓦礫の荒野と化した町の風景でした。
文先生は、これまで数十年にわたって、この日本を特別に愛してこられました。
その日本が、一瞬にしてこのような姿になり、あちこちから阿鼻叫喚の声が聞こえてくるような姿になった。
日本のこの姿をご覧になって、文先生のお気持ちはどのようであるだろう?
しかし次の瞬間、その荒れ果てた風景は、東北地方に広がる現実の風景ではなく、むしろ私の心の中の風景ではないか、という思いが湧きました。
まともな建物もない。
美しい、心やすらぐ緑の木立もない。
そんな心象風景。
このような姿に心を痛めながらも、文先生は、
「このような者でも、ひたむきに愛そう」
と身悶えしてこられたのではなかったか。
整然として、潤いのある内的な世界を1日も早く作り上げていかないといけません。
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