真の救いの道
したがって、終末に処している現代人は、何よりもまず、謙遜な心をもって行う祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。 つぎには、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。そして探しだしたその真理が、果たして自分の体の内で神霊と一つになり、真の天的な喜びを、心霊の深いところから感ずるようにしてくれるかどうかを確認しなければならないのである。 このようにすることによってのみ、終末の信徒たちは、真の救いの道をたどっていくことができるのである。 (原理講論「終末論」第五節 終末と新しいみ言と我々の姿勢) |
原理教室の講師は、この終末論の御言を紹介しながら、「終末に処している現代人」とか「終末の信徒たち」とは一体誰のことだろうか、と問いかけます。
そして、こんなふうに言うのです。
「これまでこの部分は、新しい再臨の摂理が始まっているのに、それを認めようとしない頑迷なキリスト教徒のことを指して言っているのだろうと思っていた。
しかし、最近、よくよく考えてみると、これはキリスト教徒に限らない、むしろ再臨主とその新しい真理を受け入れていると自負している信徒たちのことをいっているのではないか」
上に引用した箇所の直前に、次のような記述もあります。
堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、大抵は真理面に重きをおいて復帰摂理路程を歩んでいくようになる。したがって、このような人間たちは、古い時代の真理観に執着しているがゆえに、復帰摂理が新しい摂理の時代へと転換していても、彼らはこの新しい時代の摂理にたやすく感応してついてくることが難しいのである。(同上) |
「神霊に対する感性が非常に鈍い」
というのは、私のことを言われているような気がして、ドキッとします。
こういうタイプの人間は、どうしても真理面に頼って生きていくようになります。
真理というのは「普遍化」されやすいという利点をもっていますが、その反面、一旦受け入れると、それが固定化されてしまい、新しいものを受け入れにくくなるという困った面をもっているのです。
神様の復帰摂理は、時々刻々、年々歳々、変化しながら進展していると言っていいでしょう。
20年前に新しい真理を受け入れたからといって、安心しては危険だということです。
どうしたらいいのでしょうか?
謙遜な心をもって行う祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう、継続的に努力しなければならないのです。
そして、その時、因習的な観念を捨てる必要があります。
過去の体験や知識も価値がないことはありませんが、それに頼りすぎると、「因習的な観念」となってしまう可能性があります。
いつも最新のものを受け入れる準備をしておかねばなりません。
最も新しいものは、時空を超越して来る。
それが「神霊」ではないでしょうか。
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