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愛天生活に徹する

kitasendo
好々爺 

「愛天生活」に関する講話のビデオを視聴しました。

イエス様の言葉、
心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、汝の主なる神を愛せ
の中に、「愛天」の精神が表現されています。

また、文鮮明先生のみ言葉を引用して、神様を愛する「愛天」の生活の基本は、

① 神様への挨拶
② 神様への報告

の2点であるとも説明されました。

「愛天」における神様と人間との関係は、
愛を中心として人間は神様に対して対象的な存在であり、主体ではない
ということになります。

自分の都合ではなく、神様の都合に合わせるべきだということです。

視聴後に、ある婦人から、
「夜、寝間着に着替えたり、裸足のままで神様に挨拶をしたり、敬拝をしたりすることがあるのですが、失礼なんでしょうか?」
という質問が出ました。

これに対しては、「自分もそうだ」という人があり、「やはり失礼ではないか」という意見もあった一方で、
「神様と私たちとは親子なんですから、寝間着や裸足をそんなに気にする必要はないんじゃないでしょうか」
という方もありました。

その他にも、韓国人の夫の実家に行った時、日本とはずいぶん違う親子の関係を体験したというような体験談も出てきて、珍しく議論が盛り上がり、有意義な時間になりました。

文亨進世界会長が、文先生ご夫妻に従って、ほとんどの行動をともにされるようになって1年半。
この生活は、それまでのいかなる修行よりも厳しい修行だと証しされたのを聞きました。

文先生は、どんなに遅く休まれても、早朝の5時には間違いなく訓読会を始められます。
しかもその訓読会は、時に5時間、10時間、長くなれば20時間以上続くことがあります。

そんな訓読会の連続に、世界会長も、
耐えられない
と感じることが多いというのです。

ところが、その辛さを感じながらも、文先生のそばにいると、自分自身を悔い改める思いしか出てこない。
それでこの生活が、修行の中の修行だと言われるのです。

この証を見れば、親子の間にもとても厳しい規律があるように感じられます。
親だからといって、ただ無条件に甘えることはできない、張り詰めた空気があります。

私が想像するのに、文先生という方は「愛天」の生活に徹しておられるのではないかと思います。
それで、その方のそばにいると、心が緊張せざるを得ないのです。

私は愛天の基準からいかにズレているだろうか?
と、自問自答せざるを得なくなるのです。

もちろん、文先生には、ついつい甘い飴を孫にやりすぎてしまう好々爺の姿もあるでしょう。

しかしその一方で、
天の王宮法は極めて厳格である
というみ言葉もあります。

「愛天生活」には、一面的に判断できない多面的な要素があるように思います。

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