私のところに供え物を持って来なさい
アダムの家庭で、長男カインと次男アベルがともに供え物をします。
原理的には、父親のアダムに供え物をする資格がなかったので、その身代わりとして息子たちが行うようになったと説明されています。
考えてみれば当然のことですが、供え物をするというのは神様への信仰があったからに違いありません。
信仰はアベルだけではなく、カインにもあったのです。
私にとってよく分からないことがあります。
父母であるアダムとエバは神のみ言葉を破って堕落し、エデンの園を追い出されたのに、その息子たちが供え物をするほどに信仰をもったというのは、どのような育て方をしたのでしょうか。
アダムとエバは16歳の頃まで神様との関係を持っていたのですから、神様の実感を十分に持っていたでしょう。
神様との蜜月の期間を忘れることはできなかったと思われます。
しかし、その神様を裏切ったという心の痛み。
愛が深ければ深いだけ、その痛みも大きかったでしょう。
そのような心を抱えながら、2人はどのように子どもたちを育て、教育したのか。
自分自身に信仰もないのに、子どもを信仰的に育てるということはできないように思います。
アベルが自分の家畜の中から肥えたものや初子を供えたというのは、かなりの信仰です。
私がこのようなことを考えるのは、現実の私たちの家庭において、父母は信仰の道を歩んできたとしても、子どもたちにそれを相続させることは必ずしも容易でないことを経験するからです。
もっとも、父母の信仰といっても、その中身は問題です。
見た目だけでは判断できません。
父母は素晴らしい信仰者だと見えても、その子どもたちが信仰を持たなくなったという事例も見聞きします。
一体、私たちの信仰は、堕落した後に家庭を持ち、子どもを産み育てたアダム・エバよりも劣るのだろうか?
アダムの家庭は、少なくとも、家庭の中で「神様」の存在がとても身近だったと思われます。
何しろ、
「供え物をしなさい」
と神様が直接、2人に語りかけたのです。
そして2人とも、その語りかけに応えたのです。
アダムとエバは、子どもたちに神様をどのように教えたのでしょうか。
「神様はこのような方であり、このように私たちを愛してくださったのだ」
と、実体験を教えたのでしょうか。
とにかく、今の私たちのように、訓読するみ言葉などなかったのです。
今日、私たちは自分自身の信仰を維持することはできたとしても、子どもたちの代にその信仰をより発展させるという点において、多くの困難を感じています。
少なくとも、神様が、
「私のところに供え物を持って来なさい」
と願われた時に、それに応える子どもをどのように育てるか。
深刻な課題です。
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神様との蜜月の期間を忘れることはできなかったと思われます。
しかし、その神様を裏切ったという心の痛み。
愛が深ければ深いだけ、その痛みも大きかったでしょう。
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自分自身に信仰もないのに、子どもを信仰的に育てるということはできないように思います。
アベルが自分の家畜の中から肥えたものや初子を供えたというのは、かなりの信仰です。
私がこのようなことを考えるのは、現実の私たちの家庭において、父母は信仰の道を歩んできたとしても、子どもたちにそれを相続させることは必ずしも容易でないことを経験するからです。
もっとも、父母の信仰といっても、その中身は問題です。
見た目だけでは判断できません。
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一体、私たちの信仰は、堕落した後に家庭を持ち、子どもを産み育てたアダム・エバよりも劣るのだろうか?
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何しろ、
「供え物をしなさい」
と神様が直接、2人に語りかけたのです。
そして2人とも、その語りかけに応えたのです。
アダムとエバは、子どもたちに神様をどのように教えたのでしょうか。
「神様はこのような方であり、このように私たちを愛してくださったのだ」
と、実体験を教えたのでしょうか。
とにかく、今の私たちのように、訓読するみ言葉などなかったのです。
今日、私たちは自分自身の信仰を維持することはできたとしても、子どもたちの代にその信仰をより発展させるという点において、多くの困難を感じています。
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と願われた時に、それに応える子どもをどのように育てるか。
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