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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

み言葉を「分け与える」

2011/09/10
訓読三昧 0
訓読会 

文鮮明先生が「訓読会制定」の宣布をされたのは、1997年10月13日、南米ウルグアイでした。
これに先立つ、同年9月1日、第9回天父主義記念の席で、文先生は「今日から新しい時代に移行する」と語られ、新しい時代に適した生活指針として「訓読の生活」を提示しておられます。

振り返れば、それからすでに14年。
文先生の言われる「訓読」がただ単に本を音読するという次元のことでないことは分かっていても、その本当の意義や価値を悟ることができずにきたような気がします。

「訓読会が始まって1年8ケ月。皆さんがどれだけ霊界をはっきりと知り、信仰基準がどれほど高まったのかを自省しなければならない」
(1999年6月のみ言葉)

先日「
訓読の真の力」を書きながら、私自身も改めて訓読生活に取り組んでいます。

今日は、「訓読会」について語られた文先生の御言をいくつか抜き書きして、その真の意義について、少しでも掘り下げてみようと思います。

「訓読」の「訓」は「み言葉が川となって流れる」という意味。
水の流れは生命の元素である。
それで、み言葉を中心に動くところには、復活がなされる。

「訓読」の「読」は「み言葉を売る」ということ。

この「売る」というのは、「分け与える」というような意味合いがあるように思います。
「み言葉を教える」のではなく「み言葉を分け与える」。

「教える」と言えば、説教や講義、修練会を連想しますが、「訓読」というのは「共に読む」。
「このような良い本があるので。一緒に読んでみませんか?」と言って、「分け与える」感じです。

訓読会は霊界の先祖も自分の子孫も解放するためのプログラムである。
訓読すれば教師も牧師も必要ない。
訓読する家庭は天国の家庭になる。

訓読会は宇宙生成の力を持つ。
訓読会をすればするほど、モヤシが水を吸収して成長するように大きくなる。

先ずは、自分自身の霊人体が霊的な栄養素を受けて成長するということでしょう。
それが自分から始まり、家庭の伝統になれば、子どもたちの教育も心配がありません。

み言葉の中には真の父母が生きてきた生活と教えがあるので、訓読を通して子どもたちがそれを自然に吸収、体恤するようになるのです。
そして、それが氏族へ、地域へと拡大する。
そのような生成力を持っているというのです。

ご飯よりも、祈祷よりも訓読会を重視せよ。
訓読会には奥深い面白み、醍醐味があることを感じなければならない。
朝だけでよいのではなく、昼も夜も寝る前も訓読すれば、霊人体が育つ。

文字通り、み言葉は霊人体の「食物」です。
食事は時々美味しい食事をすれば生きていけるのではなく、毎日朝昼晩と飽くことなく摂り続けてこそ生命の維持発展があります。
毎日読んでも、毎日新しい味を感じるようにならないと、訓読は辛い義務のようになるでしょう。

訓読会は、真の父母が皆さんを完成させる時間である。
真の父母が定着したすべての心情世界を皆さんの家庭に定着させるための時間である。

訓読会は霊界の協助を受ける条件である。
み言葉は時間を超越する。
かつて、50年以上前から真の父母に協助した霊界全体が蘇り、皆さんに連結されて助けるようになる。
訓読すれば霊界がみ旨を成就するように協助する。
再創造の恵みが始まる。

天国に行くことを心配するな。
訓読した分だけ、霊界の基盤が整う。
訓読会を10回すれば、10回悔い改めたという事実になる。
逆に、皆さんが訓読会をしなければ、それだけ蕩減を受けるようになる。

2000年代に入って、統一教会の祝福は4億双となって継続しています。
それほど多くの人たちを、どのように教育するのか?

教会の指導者たちがそう質問したとき、文先生は笑ったと言われます。
お前たちに教育ができるわけがない。10年もしないうちに荷物をまとめて出ていくだろう」

それで文先生はみ言葉を残し、訓読会の伝統を残そうとされたのだと考えられます。

訓読会に関するこのようなみ言葉を精読すればするほど、これまでの私には大きな思い違いがあったのではないかという気がしてきます。

み言葉を「教える」のではなく、み言葉を「分け与える」。
分け与えるのに、講師も牧師も必要はないのです。

ただ必要なのは「訓読師」です。
訓読会によって再創造の恩恵を受け、真に霊人体の成長した指導者が必要だということになります。

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