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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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無思考の鍛錬

瞑想 

「1日15分」瞑想法 (PHP文庫) 』(宝彩有菜著)を読みながら、瞑想について少し瞑想してみます。

瞑想がいつ、どのように考案されて始まったのか、私には分かりません。

人類最古の文明と言われるシュメール時代の神官は、
「思念とは神から与えられるもの。人間がすべきことは、魂の空間を用意することだ。
その空間が用意できれば、節目の重要な時に神から必要な思念が降りてくる
と考えていました。

デカルトが、
「我思う、故に我有り」
と言って以来、現代人は、
思念は自分の内から生じてくる
と考えるようになりました。

確かに、思念は自分の内からも作り出すことができます。
しかしそれは長い目でみると、宇宙のリズムと合わなくなることが多いと、シュメールの神官は考えていました。
それで、最も良い思念を得る方法は、自らの魂に空間を用意すること、すなわち頭の中を空っぽにすることだというのです。

この「魂の空間を用意すること」が、瞑想の原型ではないかという気がします。

それが古代インドに伝わったのかどうかは定かでありませんが、古代インド人は、
無思考こそ最も良い頭の鍛錬法だ
と発想したのです。

足を鍛えるには多く走り、多く跳ぶ。
それと同じ理屈で言えば、頭を鍛えるには多く考え、多く思うこと。

そう発想しそうですが、古代インド人は逆の発想をしました。
「健全で卓越した思念のためには、思念を限りなくゼロに近づけること
そんなふうに発想したのです。

しかし、私たちの頭の中には絶え間なく思念が去来しています。
ある研究者の報告によれば、1日に2万から4万の思いが頭の中に生じては消えているといいます。
それだけの思念をゼロに近づけることはたやすいことではありません。

それで古代インド人は、その目的を達成するために試行錯誤の実践を通して工夫を積み重ね、「瞑想」という手法を創出したのです。

宝彩氏によれば、古代インドで考案された瞑想の手法は、その後、周辺に伝播される過程で3つに分割されたのではないかと推論しています。

東へは「集中」の手法。
南へは「気づき」の手法。
西へは「棚上げ」の手法。

それらについては、今後私も改めて瞑想を実践して見ながら、お伝えしようと思います。

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