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神の声は聞こえない

kitasendo
声を聞く 

ちょっと知りたくて、お父様(文鮮明先生)に尋ねました。
お父様がハナニム(神様)と「話される」時に、実際、声が聞こえるのかと。
お父様は、声は聞こえないが即座に感じ、そして分かるのだとおっしゃいました。
(『はげ頭と苺』文亨進著)

神様とのコミュニケーションは声でのやり取りではなく、「感じて、分かる」ことによってなされる。
このことは極めて重要だと、文亨進世界会長が言っておられる通り、私も重要な一言だと思います。

随分以前のことになりますが、私が当時の文先生の公館で開かれた集会に参加させていただいたことがあります。
その時、お話をされる中で、文先生は1冊の小さな手帳を掲げて、こう言われたのです。

ここに、神様からの指示が書いてある

その指示はどのように受け取られたのだろうかと、漠然と思っていましたが、上のお話からすれば、その指示は神様の声として聞かれたことではなさそうです。

なぜ、「感じて、分かる」という関わりが重要なのでしょうか。

それは、ここに神様と私たちの関係の特性が潜んでいるからです。

もし、文先生が神様の声を聞かれたとすれば、神様と文先生とは「切り離されている」ということになります。
神様は「話す方」で、文先生は「聞く人」となるのです。

ところが、「感じて、分かる」ということになると、神様と文先生とは「切り離されていない」関係だと言えます。
神様と文先生は一つだということです。

文先生のみ言葉に、このようにあります。

「それでは神様はどこにいらっしゃるのでしょうか? 神様は霊界にいらっしゃるのではなく、私たち一人一人の心の中心情の真ん中にいらっしゃるのです」

神様は「無所不在」の本体でいらっしゃいますから、「どこに」というのは不適切なのかも知れませんが、敢えて言えば、「私の心の真ん中」というのが一番適切なようです。

神様とのこのような関係は、言うまでもなく、文先生にだけ該当するのではなく、私たち全てに当てはまることでしょう。

私たちも本来、神様と「切り離された」存在ではありません。
にも拘らず、私たちは往々にして、神様は「どこか私の外部におられる」と考えるのです。

神様から見捨てられたと感じる。
祈っても答えが返ってこず、祈りが聞かれていないと感じる。

そのような感情は、神様が私と「切り離された」存在だと考えているところから生じてくる、というのが文世界会長の見解です。

この問題をもう少し敷衍して考えてみます。

私たちには五感がありますから、私の外部のものを認識するのに、姿を見たり、声を聞いたり、触ってみたりします。

セミが鳴きだすと、「ああ、梅雨が終わって夏がきたなあ」と感じます。
この時、私はセミの声を私の外部の音として聞いています。
その音を通して、夏の感触を内面的に感じたりもします。

誰かと話をしていて、その声や表情から「何か心配事があるのだろうか」と感じることもあります。
これも耳や目から入った情報を通して、より内面的な相手の様子を感じるのです。

見たり聞いたりする段階では、私も相手とは切り離された関係ですが、感じるようになるとその距離はぐっと近くなります。
相手の悲しみを自分の悲しみのように感じるようになれば、自分と相手の距離は限りなく小さくなるとも言えます。

このように見ると、「感じる」ということは「見たり聞いたりする」よりもよほど内面的であり、近い関係であることが分かります。
それで神様は見えない神様でおられるのだとも言えそうです。

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