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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

いずくんぞ死を知らんや

2011/07/15
思索三昧 0
ソクラテスの死 

会長 いったいどっちなんですか。死んだらそれでおしまいなのか、そうではないのか。
ソクラテス なんで君は僕にそんなことを訊くのだ。
会長 最期の日の哲学者なら、答えが出ているだろうと思ったのです。
ソクラテス すまん、あいにく僕にはわからんね。わからんということだけは、よくわかるがね。
会長 怖いと感じることはないのですか。
ソクラテス 怖い? まさかそんなことはないよ。だったら、わかってることになっちゃうもの。
会長 もう一度お願いします。
ソクラテス 死ぬことが怖いというなら、死ぬとはどういうことなのかわかっているということになるではないか。
会長 どうしてですか。
ソクラテス だって、それが何だか分からないものに対して、どうして態度をとることができるかね。
会長 わからないから怖いというのが普通でしょう。
ソクラテス じゃあ、わかればそれは怖くなくなるんだね。
会長 そりゃそうでしょう。
ソクラテス じゃあ、君は生きているということをどうわかっているのかね。
(『帰ってきたソクラテス』池田晶子著)

ここで会長として登場しているのは、尊厳死の会会長です。
対するソクラテスとは、死刑に処せられる直前、牢獄の中にいる哲学者です。

もちろんこんな対話は架空のものであり、著者池田氏の創作ですが、なかなか面白い対話が展開します。

池田ソクラテスは、死の直前にいたっても、
死とは何か
がさっぱり分からないと言っています。

そして、分からないからこそ、
怖くもない
と言うのです。

池田氏は1960年に生まれ、50歳を前にして早世した気鋭の哲学者でした。
生涯、生と死について思索しましたが、遂に「死の意味」を明確に突き止めることはできなかったのです。

私が存在するときには死は存在せず、死が存在するときには私はもはや存在しない
(エピクロス)

哲学的に思索すると、死とは生の反対概念であり、死が存在するときには生が存在せず、生が存在するときには死が存在しない、というふうに考えます。
それで、生の立場からみると、死は「無」だというようにも言うのです。

孔子様はそのような概念的な議論の深みに入ることを避けられたように見えます。

我いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや
と確答を保留にしておられます。

このような先人たちの、死に対する曖昧模糊とした思索や態度に対して、文鮮明先生の説明は実に明確です。

皆様、「死」という単語は神聖な言葉です。悲しみと苦痛の代名詞ではありません。
それで、真の父母がその単語を「昇華」という言葉に換えて発表しました。地上界の人生を花咲かせ、実を結び、穀物を抱いて歓喜と勝利の世界に入る時が霊界入門の瞬間です。
喜ぶべき瞬間です。
(天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会の講演文より)


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