立体的な存在をめざす
昨日の記事「震災の本質は、ここにある」に対して、いくつかのコメントをいただきました。
私自身、読み返してみて、やや言葉足らずの書き方で、読者の方にとっては分かりにくいところもあったようだと、自戒しているところです。
梶栗会長の真意を私なりに、もう少し考えてみます。
震災の被災者を助けるのに、ボランティアが無用だというのではありません。
ただ、助け方には大きく2つの道があるだろうと思います。
一つは、生き残っている人たちを助ける道です。
その一つがボランティアであり、無償で行おうというのですから、立派な志だと言えます。
もう一つは、亡くなった人たちを助ける道です。
これは、誰にでもできることではありません。
しかし、少なくとも宗教者としてボランティアに赴く場合、第一の道だけでなく、第二の道も心の中にはしっかり意識していなければならないだろう、というのが梶栗会長の思いではないかと思うのです。
生き残ってこれからの生活を再建していかなければならない人たちも大変ではあるでしょう。
しかし、会長ご自身の霊的な体験からすれば、地震や津波で瞬時にして絶命した人たちの、霊界におけるこれからの生活再建はもっとはるかに大変だというのが実感なのだろうと思います。
そういう実感が乏しく、眼に見えることしか分からず、死者の声を聞くことのできないボランティア活動。
また、神様を観念的に考えて、あらゆる現象に神様の善意だけを見ようとする観念的な信仰。
それだけでは、往々にして自己満足に終わってしまい、宗教者としての本来の使命を見失ってしまうのではないか。
そこに、梶栗会長が驚きを越えて、怒りさえ感じられたという理由があるように、私は思います。
「様々な手伝いをして、喜びを感じて楽しかった」
「神様を感じた」
こういう感想は、何だか、自分のことしか見ていない。
生きている人のことも、ましてや亡くなった人たちのことなどは、ほとんど見えていないような感じもします。
このような感覚のことを、とらさんはコメントで、
「深みがない」
「物事の真実を見極める心がない」
と書いておられるのですが、上のような感想に限って言えば、私も同意せざるを得ない気がします。
ただ、私としては、ボランティアの青年たちだけを責める気にはなれません。
私自身も、自分の内面を再点検してみる必要を感じます。
原理講論の中に、
「創造目的を完成した人間は、神を中心として、常に球形運動の生活をする立体的な存在である」(『原理講論』p.57)
とあります。
分かりやすい文章ではありませんが、眼に見えるものしか分からない人間は、どう考えても「立体的な存在」だとは言えないでしょう。
霊界まで含めて、眼に見えないものをよく弁え、現実世界とバランスをとって生活できる者を「立体的な存在」と呼んでいいでしょう。
眼に見えるものしか考えずに生活する者は「平面的な存在」と呼べます。
平面的ではなく、立体的な存在を目指さなければならないのが、宗教者の立場だろうと思います。
私も大いに自戒しなければなりません。
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