マッチングの伝統「探す」
昨日の記事「誇らしいマッチングの伝統」で、その伝統として3点を挙げました。
① 神様が願い、準備された一人の相手を探す
② 極と極とが出会ってこそ、発展的な結果をもたらす
③ 互いを家族として受け入れる
これらの点について、少し掘り下げてみたいと思います。
マッチングにおいて、結婚の相手は「選ぶ」ものではなく「探す」ものだと言えます。
「選ぶ」というのは、どういうことでしょうか?
男性には女性が、女性には男性が、複数いる中から、自分にとってベストの人を「選ぶ」のです。
AさんよりはBさんが少し良く、BさんよりはCさんがもっと良い。
この「良い」という基準の中には、容姿や性格、家柄、財産など、いろいろなものがあるでしょう。
しかし、「良い」という自分の判断が絶対正しいとは言えず、そもそも「選ぶ」ということ自体が相対的です。
「私の選択は本当に正しかったのか? 最善の伴侶を選んだと言えるのか?」
と、常に自問自答し続けなければなりません。
そしてある時、自分の判断が最善ではなかったと思い至ったとすれば、敢えてより正しい選択をし直すか、あるいは最善ではないと思いつつも諦めるか、いずれかの道しかないでしょう。
それに対して、「探す」というのは、複数の中から最善と思えるものを「選ぶ」のとは、根本的に違います。
自分のために「神様が準備してくださった1人の人」を探し出すことです。
文先生がマッチングされるときは、たくさんの候補者の中から互いに合いそうな男女を「選ぶ」のではなく、神霊の世界に没入して、霊的な感覚で探し出そうとされたのだと思えます。
「選ぶ」のは理性でもできることですが、「探す」ためには霊的な直観が必要であり、直観が正しく作用するためには相当な精誠の積み上げが必要です。
私も含めて、文先生のマッチングに基づいて結婚相手を決めた者たちは、文先生の霊的直観に信頼をおいたのだと思います。
信じるに足るだけの精誠を積まれた方であると信じたのです。
それで、私の伴侶は複数の候補者の中から「選ばれた」人ではなく、正確に「探し出された」人だと信じるのです。
天国の細胞は家庭であり、その家庭から新しい人間が生産されていきます。
その生産工場の中核が夫婦ですが、その夫婦はお互いを選んで結びついたのではなく、神様が準備された人を探し出して結びついた。
その確信に基づいて人が生まれていってこそ、磐石な天国が出来上がっていくのではないでしょうか。
その意味で、天国の礎石は、男女が互いに自分の伴侶を「探し出す」ところから始まると言っていいでしょう。
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