慕わしさの中心
李耀翰牧師が1977年10月にされた説教「イエス様の内的生活」に、次のようなエピソードが語られています。
1977年と言えば、57歳の文鮮明先生が精力的に世界的な活動を展開しておられた頃です。
米国を中心に活動しておられた文先生が時々韓国に帰られると、全国の教会をこまめに巡回されたそうです。
李牧師が担当する教会にも3日ほど滞在されました。
文先生が每日み言葉を語られ、教会員たちと交流される間はいいのですが、先生が帰って行かれた後が大変だったというのです。
教会員たちが李牧師を慕わず、従順でなくなってしまう。
それで、教会長として会員たちを統率することがずいぶん難しくなったのです。
文先生が巡回に来られる以前は、李牧師に会えなければ耐え難いと言って、早朝から教会を訪ねて来るほどの人たちがいたのに、文先生が3日ほど滞在された後からは、誰も訪ねて来なくなりました。
再び前の状態を回復するために、さらに精誠を尽くすのならいいのですが、さすがの李牧師にも不平が出たというのです。
ある機会に、李牧師は文先生に次のように申し上げたそうです。
「私は10ワットの電球であり、先生は1000ワットの電球ですから、先生が来られたらぱっと明るくなって、その時はいいのですが、去られた後は、私の電球の明るさをもっては食口(シック=教会員)たちの心霊の前に光になることができません。食口たちを統率するのが難しいのです。
ですから、あまりしょっちゅう巡回においでにならないでください」
ずいぶんと分別のない言いように思えますが、それほど李牧師にとっては深刻な事態だったのでしょう。
ところで、李牧師の苦悩とは別に、ここで重要な一つの問題が浮かび上がってきます。
教会を訪れる人たちの心は、何を最も切に求めているのか?
慕わしさの中心、自分の相談の中心、み言葉の中心を探し求めて来るのが、教会員たちであるということです。
子どもたちが幼い間は、家に帰っても母親がいなければ家に入らず、外で遊びます。
そして母親が帰ってきたら、一緒に家に入っていくのです。
家に父母がいなければ、子どもたちは分散して孤児になる。
父母がいてこそ、子どもたちも集まるようになるのです。
教会においても、慕わしさの中心がなく、またお互いに慕わしいという思いがなければ、集まりたいという思いにはならないでしょう。
私たちの心霊の呼吸は、情です。愛です。 慕わしさの中心をもち、慕わしさの主体になるならば、私は呼吸することのできる人だというのです。 そうすれば繁殖力をもつようになります。 皆さんは、呼吸していますか? 健康ですか? 心霊が健康な人ですか? 慕わしさの中心をもち、慕わしさの対象をもった、そのような霊人体が健康な人です。 (『聖書の中の心情圏』李耀翰牧師 p.170) |
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慕わしい
神様と文先生のみことばを慕い家族が慕わしい心情で
生活できるには私の愛が大切だと思い読ませていただきました。