愛の代価を返す
李耀翰牧師の説教は、訓読すればするほど深い味わいを実感します。
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人は実力を備えて、自分に愛を与えてくれた方に嬉しさをもってお返しするのは当然でしょう?
例えば、主人が高い土地にリンゴの木を植えたとしましょう。
そうするとその土地代がかかり、苦労して肥料をやり、草をむしり、そのように愛した代価を、木は秋になって払うようになります。
ところが実を結ぶことができず、肥料だけ吸収して負債をいっぱい負うようになれば、これを引き抜いて捨て、豆でも植えようかと考えるようになるのです。
それで人は、生きていく上で愛の代価を返すことができなければ、災いを受けるようになっているのです。
私たちは、愛の実体としてこの世に生まれました。
父母の愛を受け、学校の愛を受け、歴史的な数多い功労者たちの愛を伝授されました。
歴史的に見るならば、私たちはイエス様の愛を受け、殉教者と殉国者の愛をあまりにもたくさん受けて、その愛を体にぶら下げているのと同じ立場です。
それは、私という存在は、愛の代価を返さなければならない存在だということです。
父母よりも先輩よりも良くならなければならないし、昨年より今年がもっと良くならなければならない私だというのです。
例えるならば、昨年ある果樹の実を100個実らせたならば、今年は120個実らせ、来年には130個実らせることができるとき、主人はその木を愛するのであって、昨年は100個実ったのに今年は80個、来年には60個というように少なくなれば、主人はその木に対して期待をかけることができません。
(『聖書の中の心情圏』の「本性の道」より)
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私が今ここまで育ち、何らかの実力を持ったというのは、必ず私への愛の投入があったということです。
そして、投入されたものは、必ずそれ以上のものとして返したいと思う。
これが人生観の大前提です。
私が勉強に精を出すのも、実力をつけてより多くを返すためです。
以前、「神様が贈与者になるとき」という記事を書き、
「この世は『贈与』と『返礼』から成り立っている」
と考えました。
何かを貰っていても、それを「私への贈り物」と認識しない限り、「お返し」したいという気持ちは生じません。
この世の最初の「贈与者」は神様です。
その方の本性は、無限に与えようとすることです。
そして、神様から創造された被造物の本性は、すべてのものを「神様からの愛の贈与」と考え、実力をつけて一つでも多くを返そうとすることです。
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