「ほう、そうか」
臨済宗中興の祖と仰がれ、500年に1人の高僧とも言われる、白隠禅師。
この禅師には、驚くべき一つの逸話があります。
駿河の原宿、松蔭寺に住していたとき、村の娘が父なし子を孕みました。
父母は娘に男の名を言えと迫りましたが、娘は頑として口を開かない。
しかしついにはあまりの圧迫に耐え切れず、
「松蔭寺の住職様が・・・」
と嘘をつきます。
父が畏敬する方であれば、もしや許してもらえるかとの娘の浅知恵でした。
ところが父は、畏敬する高僧であればこそ、かえって激しく怒り、生まれた赤子を抱えて寺に怒鳴り込みます。
「このなまぐさ坊主。これがお前の子なら、お前が引き取れ!」
と、赤子を禅師に突きつけます。
その時の禅師の応答が、
「ほう、そうか」
寺に乳があるわけでもなし、禅師は次の日から村を歩いてもらい乳を続けます。
呆れた村人は寺から足が遠のき、弟子はみな去っていきます。
うわさは近隣に広がり、禅師の評判は地に堕ちました。
1年ほどがたちます。
娘が禅師の姿にたまりきれず、実の父を白状します。
驚いて詫びに来た娘の父に、禅師が答えた一言が、また、
「ほう、そうか」
そう言って、何事もなかったかのように、赤子を父娘に返して、ただ泰然。
この2回の
「ほう、そうか」
があまりにも凄い。
白隠禅師の心の内はとても私にははかりかねます。
人間はここまでこだわりを持たず、泰然として、自分に降りかかる事態を受け止められるものでしょうか。
「私は修行を積んだひとかどの僧である」
「私は村の百姓だけでなく、近郷の数百人を集めて説法する僧である」
そのような意識に少しでもこだわれば、
「ほう、そうか」
は決して出てこなかったでしょう。
娘が浅知恵で禅師を巻き込めば、何も言わずに巻き込まれる。
嘘と分かって赤子を返してくれと言われれば、咎めもせずに返す。
嘘つき娘への憤りはなかったのでしょうか?
自分を誤解する人たちへの屈辱感はなかったのでしょうか?
禅師は、今自分の周りで起こっている出来事を個人的なものとして捉えていないのです。
そうであればこそ、禅師は誰の被害者でもありません。
被害者とならない限り、その出来事は禅師に何の力も振るうことができないのです。
これはかなり驚くべき真理ではないでしょうか。
私の周りでどんなことが起ころうと、私自身がそのことの被害者にはならないと決めさえすれば、私は決して不幸になることもないのです。
禅師の態度のお蔭で、禅師自身も被害者にならず、赤子も死を免れました。
私がさまざまな環境の被害者にならない方法は、
「こだわらない」
ということです。
そのためには、
「私はこれこれの者である」
という思いを捨て去ることです。
そして最後に残るのが、
「私は神様の子である」
という思いのみ。
これさえできれば、私たちの人生はどれほど楽になるでしょうか。

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