10円玉の悲哀と喜び
今朝訓読した文先生のみ言葉に、「お金」に関するものがありました。
「お金よ、お金よ」
と、10円玉に話しかけなさい、と言われます。
「あなたは、一体どこから来たのか?」
と尋ねると、
「私は日本銀行のどこそこで造られて・・・」
と、誕生からの道程を話してくれるそうです。
これは一種の擬人法でしょうか。
そうでもないような気がします。
「それなら、これまであなたを所有してきた人の中で、私は善において何番目か?」
と聞いてみなさい、とも言われます。
お金にも心があれば、悪なる人よりも全なる人に所有されたいと思うに違いありません。
私が善なる人であれば、私のところに回ってきたお金は、私のところに留まりたいと言うでしょう。
お金がそのように懇願しても、
「お金というものは循環するのが運命である。私の手元を離れて、回ってきなさい」
と言って、送り出すべきです。
10円玉と本当にこのようなやりとりができるとしたら、どんなに素晴らしいでしょうか。
ふつう私たちがお金に対するとき、注目するのは、その機能(これだけの額なら、これだけのものと交換できる)であって、彼がたどってきた道のりや、そこで感じた悲哀や喜びなどに関心を持つことはないでしょう。
今どき10円玉の機能など、高がしれています。
しかし、そのものが持つ価値は、機能にだけにあるのではありません。
機能のことなど忘れて、ただ彼がたどってきた道のりや、そこで感じた悲哀や喜びに集中し、そこで授受作用すれば、機能的な価値をはるかに越えた内面的な価値を、彼の中に見出すようになるでしょう。
これはもちろん、お金に限ったことではありません。
私の手元に回ってくるすべてのものについて、全く同じことが言えます。
そのものが私のところにやって来て、
「ここがこれまでで一番良いところだ。ここで私はずっと所有されたい」
と思ってくれるような主人になれるかどうか。
嫁いできた妻が、
「私はあなたのところに嫁いで、あなたの妻になれて一番幸福だった」
と言ってもらえる夫になれるかどうか。
生まれてきた子どもたちが、
「僕たちはこのお父さんお母さんのところに、子どもとして生まれて一番幸運だった」
と言ってもらえる親になれるかどうか。
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