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バベルの塔など崩してしまえ

kitasendo
バベル 

文芸評論家で都留文科大学教授の新保祐司氏が産経新聞に寄せた記事「震災で崩れた今日的バベルの塔」。

「バベルの塔」とは、旧約聖書に出てくる伝説的な塔で、アダムの家庭で次男アベルを殺害したとされる長男カインの末裔たちが中心となって、天にとどけと建立を試みたものです。
それは結局、神が阻止すべく、協働者たちの言語を混乱させることで未完に終わります。

新保氏が先の大震災の数日後に研究室に戻ってみると、本棚は倒れ、本は床にぶちまけられたように散乱していました。
それを片付け始めて10分が過ぎた頃、それまで思いもしなかった感覚が、突然、やって来たのです。

これらの本の大半は、実につまらない、価値のないものだった

文芸評論家にして大学教授ですから、その研究室には数百冊、あるいは千冊以上の本が、本棚にぎっしりと並んでいたのでしょう。
学者にとっては、論文よりも蔵書のほうが誇らしい、という話も聞いたことがあります。

ところが、それが倒れ、散乱すると、まさに神に至ることもできず崩壊したバベルの塔そのものに見えたのです。

私たちも蔵書に限らず、多くのものを所有し、それなしには快適な暮らしができないように思っています。
しかし、一旦、不可抗力によってそれらを失ってみると、私が善く生きる上において、実は必要不可欠というほどのものではなかった、ということに気がつくのかも知れません。

震災以後、連日マスコミが流す情報には、実に細部にわたるものが膨大に含まれていますが、本当には何が大切で、何がそれほど大切ではないか、ということが分明ではなくなっています。
それらの中には、「実につまらない、価値のないもの」も多数含まれているような気がします。

新保氏の論の一節です。

「大震災を機に日本人は、精神的に大きく変わらなければならないということは、ほとんどの人が感じているに違いない。今日の日本人が、生きている『今』という時間は、歴史的な時間である。あるいは、歴史的な時間にしなければならない。その変化の根底には、本質論から離れた知識とか自分を安易に納得させる解釈を求めるのではなく、『心を正しい位置に置く』ことが必要なのではないか」

数千冊の蔵書を失っても、「心を正しい位置に置く」ことさえできるなら、その蔵書はさほど惜しいものでもなく、失ったところから新しい出発ができるように思います。
このような指摘をする論者をあまり見なかったので、新保氏の記事に、はっと目が留まったのです。

ただ、「心の正しい位置」とはどのような位置なのか。
記事を読む限りでは、それはやや抽象的で、はっきりとしません。
私自身も、実は、この位置を探しているのです。

福島原発の事故は誰の責任なのか。
現政権は、日本を正しく導けるリーダーなのか否か。

そのような責任追及と批判とは数限りなく出続けているのですが、それらは一体、この国の姿をより良くしてくれる力になるのだろうか?
それらの議論のほとんどすべては「バベルの塔」に過ぎないのではないか?
私の中では、常にこの疑問が消えないのです。

抽象的に響くようではあっても、「私の心を正しい位置に置く」こと。
この力は、数千数万の事実情報や、批判、責任追及の議論よりも、はるかに絶大な威力を持って、日本をよりあるべき姿に変え得るだろうと、私は思っているのです。

「心の正しい位置」は、一体どこにあるのか?
新保氏は、「古典をじっくり読め」と、一つの提案をしています。
それもいいかも知れません。

しかし、もっと本質的には「神様と正しい関係を保てる位置」、文先生の表現で言えば「正午定着の位置」を探さねばならないでしょう。

これも、まだ抽象的ですね。
私もいまだ探求中です。

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Admin:kitasendo