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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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父母に敬拝しなさい

敬拝 

昨日の記事「
四大心情圏は三世代で完成する」の続きです。

四大心情を完成していくためには、三世代がともに暮らし、子女が父母に侍るということが必要だと、大知勇治氏は論じます。(『
氏族伝道の心理学』)

父母に侍る第一歩として、具体的にはまず2つのことを提案しています。

① 父母に敬拝をする
② 父母に「ありがとう」「ごめんなさい」を伝える

①の「父母への敬拝」について考えてみましょう。

敬拝とは「大きな挨拶」(クンジョル)ということで、韓国では日常生活に染み込んだ長い間の伝統です。
イスラム教でも1日5回、メッカのカアバ神殿の方角に向かって礼拝(サラー)を捧げますが、形態は敬拝とよく似ています。

額を床に付けるような大掛かりな挨拶をする習慣のない我々日本人にとって、敬拝というのはちょっと特別な感じがします。
しかし、韓国における敬拝は、基本的に自分の親にするものであり、自分の血統の上の人たちに侍る心情を表現する手段なのだそうです。

大知氏は、このような敬拝を日本人に勧めるのです。

これについては、私にも一つの体験があります。

15年ほども前のこと。
私が教会の牧会者をしているとき、韓国の長老が来られて、教会員の自宅を何軒か訪問されたことがあります。
私もずっと同行しました。

訪問した中に、4世代が同居する家庭がありました。
そこで長老様は、若い夫婦に対して、ふいにこういう提案をされたのです。

あなた方の父母と祖父母に敬拝を毎日してみなさい

そう言われて、すぐに父母と年老いた祖父母を呼んでくるように言われ、その4人が揃ったところで、若夫婦とその子どもたちに丁寧な敬拝をするように、実地に指導されたのです。

その時の私の実感は、「ええっ!」というものでした。
当時、敬拝というのは神様やご父母様にする特別なもの、というような観念を持っていた私にとって、これはいかにも大袈裟すぎる。

「これでは、敬拝するほうも不自然だし、敬拝を受ける方も面映いのではないか」
と、内心思ったものです。

ところが、その若夫婦はその日以来、敬拝を毎日続けるようになったのです。
そして後日、夫人が証をしてくれました。

「初めはお互いに不自然な感じだったのですが、続けているうちに、自分の中に変化が起こりました。それまで、なかなか舅姑に対して心から従順になれなかったのに、敬拝を続けるうちに、気持ちが素直になっていったんです」

その夫人自身の分析によると、父母の前に深々と頭を下げるという敬拝の形そのものが自分の心に変化を与えたのではないか、というのです。
体をもって頭を下げれば、心もそれについて下がっていく

それ以来、その家庭はさまざまなわだかまりが解かれていったようです。
長老様は、もしかしてこういうところまで洞察しておられたのでしょうか。

大知氏の意図も、そのようなところにあります。

一方、私自身。
我が家も父母の実家に帰ったとき、意を決して父母に敬拝をしたことがあります。

父母は最初、その場に坐すことも敬遠しましたが、何とか座ってもらいました。
そこで我々親子3人(娘はまだ生まれておらず、息子もまだ敬拝などできる歳ではなかったように思いますが)が緊張しながら敬拝をしたのです。

しかし、これはどうも思ったようにいきませんでした。
お互いの心の関係に、まだ何かが足りなかったのでしょう。

その後、5、6年たって父母と同居して暮らすようになりましたが、この敬拝は習慣となれないままです。
父母に深く侍ってこそ、子女の心情を完成でき、また自分がそのレベルにいかない限り、自分の子どもも子女の心情を成長させることができないと、感じることがあります。

今では父も他界し、母だけになっていますが、「父母に侍る」というのは、大きな課題です。

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