「私」を捨てる
今年の2月、私は2つの研修会に続けて参加し、20日あまり日常生活から離れた時間をもったことがあります。
2つめの研修会で懐かしい方と出会いました。
そこで瞑想について教えてもらい、20年近く離れていた瞑想をもう一度やってみる気になったのです。
わずか数日後のことです。
講義を受けている最中に、ふっと、こういう思いが私の上の方から降りてくるのを感じました。
「何も心配するな。ただ神を愛することだけに心を尽くせ。そうすれば、あとのことは必ず解かれていく」
この思いは私の中から出た感じではなく、何か絶対的な確信をもって迫ってくるものでした。
私はその頃、心の中に実に様々な心配事を抱えていました。
「どうしたら解決できるだろうか」と、それをずっと頭の中で考え続けていたのです。
私に迫ってきたアイデアは、決して私の頭で考えた回答ではありませんでした。
それ以来、私は自分の頭で考えることを極力抑え、心に感じる声を聞こうと努め、研修会から帰っても瞑想を続けたのです。
私の心配事は、すぐには解決されません。
元来頭で考えすぎる質ですから、ついつい頭で回答を探そうとします。
神様だけを愛するというのも、私には難題です。
しかし、それでも瞑想を通していくつかのことを悟るようになりました。
私が神様の声を聞き、導きを受けようとすれば、「私」を捨てなくてはならない。
「私はこう考える」
「私はこういう者だ」
「私の経験ではこういうことになるはずだ」
そういう思いをすっかり捨て去ることができて初めて、神様は私に話しかけることができる。
「私は」で始まる「思い」は、過去の記憶に条件付けられていることがほとんどです。
ですから、本当に問題の解決策を見出す道は、「思わない」で、「気づく」こと。
つまり、神様の知恵が降りてくるのをそのまま受け止めることです。
そのためには、「私」があったら難しいと感じます。
統一教会の研修会は、従来から「講義」形式が中心です。
しかし、これを自分の頭だけで受け止めると、自分の「思い」で解釈して終わりになってしまう心配があります。
「良い話を聞いたな。感動を受けたな」
という感じで研修会を終え、しばらくするとその感動も消えて、元に戻ってしまうのです。
私自身、何度もそういうことが繰り返されてきました。
本来なら、研修会などで「気づいた」ことを種として、その後に栄養を与え続けて、育てていくことが必要だと思います。
その方法が、自分なりに頭で「思わない」こと、「私」を捨てること。
この方法を見つけて実践していかないと、文先生のみことばをたくさん訓読しても、研修会に何度参加しても、その多くが時間とともに流れていってしまうのではないかと思うのです。
そのためには、「瞑想」というものを私たちの信仰生活の中できちんと位置づけていく必要があるとも思います。
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