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神様なりの観念を捨てる

kitasendo
glory 

今手元にその本がないので、うろ覚えで不正確ですが、今朝教会で訓読された文先生のみ言葉があります。

その要点は、
自分なりの生活観念を持つな
というものです。
1960年代か70年代頃のみ言葉ではないかと思います。

昔読んだ記憶はあるのですが、今日久しぶりに聞いてみると、自分が覚えていたのはその後半部分で、前半部分はほとんど記憶になかったことに気がつきました。

後半部分にあるのは、こういう指摘です。

「この世で社長をしていた人が教会に入ってみると、自分より若い人の指示を受けなければいけないことがある。『自分は会社の社長で、自分が決定し、自分が指示してきた』と考えれば、教会の中でやっていくことはできない」

「自分はこれこれの家柄の出身であるから、これくらいの生活基準をもって生きなければいけないというような考え方は捨てなければならない」

教会に入れば、「何とか長」という高い地位にあった人が、次の日にはあっという間に平信徒に戻る。
そういうことはいくらでもあります。

だから、
私は、こういう者である
という観念は邪魔にこそなれ、決して有益なものではないということです。

これはこれで理解できる指摘ですが、今日久しぶりにこのみ言葉を聞いてみると、このような思想が出てくる前提ともいうべきものが前半部分にあったことに気がついたのです。

「私は、こういう者である」
という観念を最初に捨てた方は、実のところ、神様ご自身であった、ということです。

「私は、この天地を創造した全知全能の創造主であり、被造世界から栄光を受けるべき主宰者である」
という、神様なりの「観念」を持ち続けたとすれば、神様は絶対に復帰摂理を始めることができなかった、という文先生のみ言葉。

人間が堕落した途端、神様は「栄光の神様」という観念を惜しげなく捨て去り、堕落した人間よりもさらに低く、惨めな立場に降り切って復帰摂理に取りかかられたのです。

そういう神様を発見したところから、文先生には、
「自分なりの生活観念を捨てる」
という考えが生じたのだろうと思いました。

「栄光の立場」というものから敢えて目を背けるようにしながら、惨めさを当然のごとく甘受してこられた神様であった。
そう考えると、2001年1月13日、「神様王権即位式」を挙行され、神様を本来の「栄光の立場」に戻して差し上げた文先生の功績たるや、筆舌に尽くせないものであったに違いないという理解が、おぼろげながらも浮かび上がってきます。

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mikotoba

三つのことば

出発に先だち日本の子らに
1967年8月6日
三つのことば
一、目的観に徹せよ 
二、生活基準を立てるな 
三、負債を残すな 
( 神の目的を完成するには人が必要である。人間と一体化しなければならない。しかし神の目的の人間というのは、個人復帰じゃない。その目的は何か。天宙復帰である。その中には、過去も現在も未来もみんな入る。 そういうような立場の神の目的基準に人間が目覚めて立った場合のその人間の目的基準は、最低どういう心を造って立つことになるか。・・・)
( 生活基準を立てるな。即ち、それは一体それはどういうことか。 神は今まで六千年間、ずっと復帰路程を辿ってきながら、神自身の生活をなしてきた。しかし神本来の生活はどういう基準か。このような復帰路程にもかかわらずみじめな生活基準か、それとも永遠なる、栄光の生活か、それは永遠であり、それに栄光である絶対的生活基準が神の生活基準である。それにもかゝわらず、一瞬間でも、自分は栄光の神である。自分は永遠の勝利の基準の上に立って住まなければならない者であるということを想い出した場合には、堕落した人間を復帰することはできない。・・・)
( いかなる負債をその人は抱えるか。 父母より二〇年間、ただで育てられ、それを報いなけりゃならない。そをれを報いる方法はどういう方法か。 負債を弁済する方法は、善人になること、善人にはなれる。 善人になることによって全ての負債を弁済することが出来る。・・・)

2011年04月28日 (Thu) 19:25
教育部長

mikotobaさんへ

貴重な御言を教えていただき、感謝します。
よくみ言葉を整理しておられるのですね。
これからも不足なところがあれば、ご指摘ください。

2011年04月28日 (Thu) 23:37
kitasendo
Admin:kitasendo