「思い」と「気づき」
私たちの頭の中には、毎日2万から4万の「思い」が去来しているそうです。
この「思い」には、大きく分けて、
① 感情
② 思考
の2つがあります。
感情とは、人や物と接した時に起こる、
「好き」「嫌い」
「嬉しい」「悲しい」
などの、直接的な情感の動きです。
一方、ここで思考というのは、「思惟」というほど主体的・自覚的なものはごく少数で、大半は頭の中の自分勝手な声とでも言えるようなものです。
この感情と思考の共通点は、ともに過去の記憶に縛られているということです。
おそらく自分自身だけの過去ではなく、先祖や人類全体にまで及ぶほどの広範囲の過去です。
その過去に起こった出来事とその出来事に対して持った感情と思考とが、記憶を通して私の中で繰り返し生起する。
それが私の「思い」の正体ではないかと思います。
ですから、私の「思い」は、過去の記憶というフィルターによって、初めから歪められているために、無意識的にある一定の感情や思考に片寄るのです。
論理を積み重ねて考える「思惟」あるいは「理性」というものでさえ、そのフィルターから完全に自由ではないと思います。
「思い」の反対は何かと考え、それを「気づき」と呼んでみます。
キリスト教で「啓示」、仏教で「悟り」と呼んできたものに近いと言えます。
「思い」が過去から来るのに対して、「気づき」は未来から(すなわち神、あるいは霊界から)来ます。
ですから、「気づき」は過去の記憶によって歪められていない分、より真理に近い可能性が高いのだと言えます。
私たちが宗教的な教えを学ぶ際も、「思い」と「気づき」の2つのアプローチがあり得ます。
私はだいたい理知的なタイプなので、ずいぶん頭で考えてきました。
昔、教会長の時代に、毎週日曜日の礼拝の説教を準備するのに、身悶えして苦しんだ記憶が多くあります。
「気づき」が少ない状態で説教の論旨を組み立てようとすると、「思考」で無理押しするしかないのです。
しかし、そうやって出来上がった説教は、たいていの場合、聴衆に深い感動も気づきも与えることができず、自分自身も強い疲労感が残ります。
そんな私も、最近は段々と考えるのが嫌になってきました。
考えれば考えるほど、真理の的から外れるような気がします。
自分なりに考えないで、気づきが来るような努力をしたほうが、よほど良い講義に導かれるのをしばしば体験します。
キリスト教は中世において、トマス・アキナスを頂点に、「信仰と理性」の問題と格闘し、一応「信仰」に軍配を上げたものの、「理性」的に考えすぎたと思います。
アキナス以後は、誰も理性において彼を越えることができず、結局はアキナス神学の注釈解説に終始することになりました。
企業活動の世界においては、最近至る所で「気づき」の力が発揮されるようになったと感じます。
政治の世界は今でも「思考」過多の、最も遅れた分野ではないかと思います。
今後は、宗教の世界に限らず、政治の世界も経済の世界も、すべては、
「思考」や「管理」重視から、
「気づき」や「流れにゆだねる」に重心が移行していくのではないかという気がしています。
しかし、今日のブログはやや思考過多かな。
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