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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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神の栄光が現れるためである

主の祈り

「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちが、イエスに尋ねた。
『ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか』
イエスはお答えになった。
本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」
(ヨハネによる福音書 9章1節~3節)

先日から2回に分けてご紹介した、文亨進世界会長の礼拝説教。
その第3のポイントを考えてみたいと思います。

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③ 神の栄光が現れるためである

どのように祈れば、私の祈りは神様にとどくのでしょうか?

聖書を見ると、イエス様が、
「どのように祈ってはいけないか」
ということについて教えておられます。

「大衆の前で偽善的に祈る」ことを、イエス様は戒めておられます。
祈るときは、
「狭い部屋に鍵をかけ、父に話しかけるように祈れ」
というのです。

そして、もう一つ、祈りについて、重要な指摘が聖書にあります。
弟子たちがイエス様に祈り方を問うたとき、イエス様は短い祈りを教えられました。
「主の祈り」と言われるものです。

その祈りの冒頭に、
「み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」
とあります。

これを見ると、イエス様は祈りにおいて、
私の願いではなく、神様の願い(みこころ)を先立てること
を重要視しておられることが分かります。

私たちもしばしば祈りますが、
「私の祈りはなぜ神様にとどかないのか?」
と感じることはありませんか?

個人の祈りから始めるのか、神への賛美から始めるのか。
それが最も重要な点です。

大震災が起こって、今、日本中の人たちが祈っているでしょう。
しかし、どんな祈りをしているかが問題なのです。

祈りの要諦は、先ず全てを神様が主管されるように祈ることです。
特に今のような国難のときには、個人祈祷をすべきではありません。

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冒頭に挙げたイエス様の言葉、
「神の業がこの人に現れるためである」 
という中の「業」は「栄光」と言い換えてもいいように思います。

個人の病気から、国家次元の災害まで、それは「私の罪」のためでもなく、「私の両親や先祖の罪」のためでもありません。
それはひとえに「神の栄光」が現れるためであるというのが、イエス様の教えだと見做すことができるでしょう。

しかし、多くの場合、私たちの病気は「神の栄光」にはならず、「私の苦痛」や「運命(神)への恨み」になってしまうのです。
それはなぜかといえば、私の心が「神の願い(みこころ)」に留まらず、「私の願い」に集中してしまうからです。

このような第3のポイントは、実のところ、先にご紹介した2つの観点と密接に関連しています。
3つのポイントの共通点は、
神様が私の絶対的な中心である
ということに尽きます。

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【文亨進世界会長の説教】
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2011-03-25 * - [ 編集 ]