それが大きな罪でした
本日、インターネットで文亨進世界会長の説教を伺いました。
先日も世界会長の祈祷を紹介しましたが、会長の主張は実に一貫しているのを感じます。
長い説教だったので、そのすべてをご紹介することはできませんが、2つの点に絞って考察してみようと思います。
① それが大きな罪でした
絶対信仰、絶対愛、絶対服従は、それぞれ独立した3つの徳目ではありません。
お互いにチェーンのように連結された関係です。
イエス様の衣に触って病気を治してもらった婦人の逸話が福音書に出てきます。
その時イエス様は、
「あなたは私があなたを救えると信じるか?」
と初めに問われ、癒してからは、
「あなたの信仰があなたを救った」
と言われました。
信仰がなくては神様の愛に出会えない、ということが分かります。
あなたの夫が千回万回「あなたを愛している」と繰り返してくれたとしても、もしあなたが夫の誠実さを信じていないとすれば、あなたは夫の愛を感じることはできないでしょう。
神様の愛も同様です。
神様を信じる度合いで、神様の愛を感じるのです。
神様を信じれば、今私が呼吸できることさえも神様の愛なのです。
私が健康に生まれてきたことも神様の愛です。
ここで考えなければいけないことは、私が偉大で神様の愛を受けるのではないということです。
真実は、神様の愛が偉大であるゆえに私が神様の愛を受け取ることができるのです。
私(世界会長)はお父様(文鮮明先生)の教えを守っていきてきました。
ガールフレンドも作らず、酒タバコもせず、祝福も受けて結婚し、子どももたくさん産み育ててきました。
言わば、道徳的な責任を果たしてきたのです。
それで私は、自分が義人であり、神様の前に出ることができる、天国に入れると思ってきたのです。
しかし、それが「大きな罪」でした。
そういう罪が自分にあるということを認めることは、私にとってとても困難でした。
ここに宗教と倫理との違いがあります。
生涯で一度もウソをついたことがないという人がいますか?
私も小さい頃、勉強したくなくてウソをたくさんつきました。
罪があり得ない完全な神様に対して、その前に自らを誇って出られる人はいません。
私の思いや行動が、神様に傷を与える。
それが「罪」です。
神様はいつも私のすぐ横におられるのに、どれほど無視して生きているでしょうか?
神様を無視すること自体が「罪」です。
私の資格で神様の前に出ることは決してできません。
私が罪人であっても神様の前に出られる唯一の理由は、私にあるのではなく、神様の愛にのみあるということを考えなくてはいけません。
世界会長の結論は、
「私の罪が赦されるのは、ひとえに『神様の恩寵』による」
ということです。
これは、キリスト教神学でも言われてきた、アウグスチヌス以来の「恩寵のみ」に通じるものだと思います。
しかし、世界会長の悟りは、さらにこの先まで深く入っていくのです。
(説教内容は公式に文書で出ておりませんので、文責は教育部長にあります)
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