「自分がする」という罠
「今も私は説教の内容を前もって定めません。前もって準備すれば、説教に私的な目的が入り込むかもしれません。頭の中の知識を誇ることはできますが、切実な心情を吐き出すことができなくなってしまいます。
私は公の席に出る前には、必ず10時間以上お祈りをして、真心を捧げます。そうやって根を深くするのです。葉っぱは少々虫に食われても、根が深ければ影響はありません。それと同じで、言葉が舌足らずでも、真実の心さえあればよいのです」
もちろん、講義の場合、基本的な筋書きはあります。
しかしあまり細かく準備しすぎると、それに沿って講義できる安心感がある反面、講義の内容がそれ以上にはならないことが多いのです。
つまり、予めの準備に意識が縛られ、講義の場での臨機応変な導きが受けにくいと感じます。
大雑把な準備だけして、あとは出たとこ勝負。
受講者との生きたやり取りの中でこそ、講義が導かれ、生きた講義になることが多いというのが実感です。
「自分が講義する」
と思ったとたん、頭の中が真っ白になって言葉が出なくなることがあります。
講義の時間は、いかに自分という意識をなくすか、という一種の闘いです。
これは文先生とまったく比べものになりません。
ところで、文先生が言っておられる、
「私的な目的」
という問題。
これは、ちょっと考えてみるべき問題だと思います。
私たちは無意識の中にも、この「私的」という問題、つまりサタンの罠が入り込む危険をいつも持っているように思うのです。
「神様の為にやっている」
と思いながら、その表向き素晴らしい行為の陰に、密かにすっと「私的な目的」が入り込んでしまう。
例えば、ノアという人が神様の指示で120年もかけて、山頂に巨大な箱舟を作り上げました。
それは明らかに神様の指示であり、ノアは建造中、神様のために働ける真実の喜びを感じながら毎日働きました。
ところが、出来上がったとたんに、
「この立派な箱舟は、私の信仰がなければできなかった」
という思いが、どこからともなく侵入してきたと、ノア自身が告白しています。
これが恐ろしいことです。
また、清平修練苑で責任を持っておられる大母様が、初めて神様から使命を託されるとき、
「私にはとてもできません。私はそのように大勢の前で話したこともないのです」
と辞退しようとすると、神様は大声で怒鳴られ、
「お前は自分がしようと思っているのか? 清平の役事は神がやるのだ。お前はただ、命じられたことに精誠を尽くせばよい」
と言われたと聞きます。
一見謙遜に見える態度の中にさえ、極めて巧妙に、
「自分がやる」
という傲慢が入り込む可能性を、我々はみな抱えています。
「神様に委ねる」
という、信仰の要諦は、本当に自分をなくさなくてはできないことだと思います。
「私的な目的」が一切入り込まないほどに自分をなくし、神様が「このようにしなさい」と言われたことには、「私心」を一切はさまずに従う。
これは本当に並大抵のことではありません。
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