神様が贈与者になるとき
「感謝の気持ち」を人類学では「反対給付」とも表現するそうです。
贈り物に対する返礼義務のことです。
人類学者の中には、「人間社会の基幹制度はすべて反対給付義務に基づいて構築されている」という仮説に基づいて、その人類学モデルを体系化した学者もいます。
例えば、AさんがBさんに「贈り物」をする。
受け取ったBさんは心理的な負債感をもち、「お返し」をしないと気が済まなくなる。
そこに、人間が作るすべての社会制度(親族組織、言語活動、経済活動など)の根幹があるというのです。
「負債感」とか「義務」と言うと、立場とか見栄など外的な要因での返礼という感じがしますが、「贈り物」とその「返礼」との間には、確かにこの世の成り立ちの本質を示唆する要素があるように思えます。
AさんがBさんに何かを上げるとします。
しかしこれは必ずしも「贈り物」とは言えません。
Bさんがそれをもらったとき、それを「贈り物」だと認識し、「ありがたい」と感謝したときに初めて、それが「贈り物」になるのです。
そのものは、初めから内在的に「贈り物」としての「価値」を有しているのではありません。
「これには価値がある」と思う人が出現したときに、「価値」もまた存在し始めるということです。
その「価値」を感じたときに初めて人は、「返礼」の義務を感じます。
「これは素晴らしい贈り物をもらった」と感じると、「何かお返しをしなければ」という気持ちが生じるということです。
このような「贈り物」とそれに対する「返礼」とでこの世の根幹が成り立っているということは、平たく言えば、
「『ありがとう』という言葉を誰かが言わない限り、人間的な社会は成り立たない」
ということです。
このような原理は人間社会だけではなく、神様と人間との関係においても同様に通じるものではないかと思います。
神様がこの天地を創造されました。
その目的は、ご自身に似た人間を我が子として造り、彼に被造世界のすべてを「贈与」してともに喜ぼうとされたところにあるといいます。
つまり被造世界の万物は人間に対する「贈り物」だというのですが、実のところ、それが無条件に「贈り物」となるのではありません。
それを受け取る人間が、「これは素晴らしい贈り物をもらった」と感じない限り、どんなに壮大な山河も、どんなに優美な草花も、それはただ単なる「もの(被造物)」であって、「贈り物」とはなり得ないのです。
人間が目の前に展開する世界を眺めながら、
「神様、こんなに素晴しいものを私にくださってありがとうございます」
と感謝の言葉を発したときに初めて、この世界には創造の「価値」が生じるのだと考えることができます。
そして、そのように感じた人間の内面に、
「何かを神様にお返ししたい」
という「返礼」義務感が生じるのです。
神様は、人間が発するこの「ありがとうございます」という言葉を何よりも欲しておられる方だとも考えられます。
その言葉がないと、神様はこの天地の「創造者」ではあったとしても、「贈与者」には決してなれないからです。
私が道端の何気ない小さな花を見つけて、
「神様、素晴らしい花を造られましたね。ありがとうございます」
と言うとすれば、その一言は、天地の創造者を天地の贈与者に変える、実に偉大な一言だと言えます。
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