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メディアはなぜ変化を求めるのか

kitasendo
メディア

というのは、社会制度の変化はよいことであるということはメディアにとって譲ることのできぬ根本的命題だからです。
考えれば当たり前のことですけれども、社会が変化しないとメディアに対するニーズがなくなるからです。「今日は昨日とあまり変化がありませんでした。みんな無事でよかったですね」と言祝(ことほ)ぐ習慣はメディアにはありません。・・・
劇的変化が、政治でも経済でも文化でも、どんな領域でもいいから、起こり続けること、メディアはそれを切望します。
(内田樹著『街場のメディア論』)

社会制度の変化の中には、もちろん良い変化もあるでしょう。
それを良いこととして報道することに非があるとは言えません。
しかし、すべての変化が良いことである、変化を切望するとなると、そこには問題がある。

例えば、経済学者の宇沢弘文氏は「社会的共通資本」という概念を創出して、それに属するものはできるだけ変化しにくいシステム(惰性の強いシステム)に委ねるべきだと論じています。

「社会的共通資本」に属するものとしては、
① 自然環境(大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、土壌など)
② 社会的インフラ(道路、交通機関、上下水道、電力、ガスなど)
③ 制度資本(教育、医療、金融、司法、行政など)
などがあるとしています。

これらはすべて、人間が共同的に生きて行く上で不可欠なものです。

こういうものは、政権が交代するたびにコロコロと替えられては困ります。
あるいは、市場システムに組み込まれて、需給関係で偏重されたり消滅したりしても大変です。
つまり、「政治」と「市場」に委ねられてはいけないものだというのです。

私はこの「社会的共通資本」の中に、制度資本の一つとして、「宗教」と「家庭」も含めるべきではないかと考えます。
これは最も変化の対極に置くべきものだろうと思います。

仏教は2500年。
キリスト教は2000年。
イスラム教は1400年。

これらはもちろん、長い年月の間に制度的には変わってきたところもありますが、核になる部分はこの世で最も不動なものとして存続しています。

それ以上に長い歴史の中で変わらないものが「家庭」です。
先祖から子孫へと続く血統に沿って存続する超歴史的なものであり、祖父母、父母、子女からなる構成も基本的に変わりません。

しかし、メディアの全体的な論調を見ていると、確かに、こういうものにさえ「変化はよいこと」だとの基調があるように感じられます。

なぜメディアが「変化」を「よいこと」と考えるかというと、冒頭に引用したとおり、「変化がないと、メディアへのニーズがなくなる」からに他なりません。
テレビが視聴率を伸ばし、新聞が部数を伸ばすためには、絶え間ない「変化」、すなわち「新しい出来事」しかもできるでけ「劇的な出来事」が必要なのです。

それで勢い、メディアは物事の「変化する部分」に鋭い視線を向け続けるのです。

しかし大抵の場合、変化するのは「より外的な部分」です。
社会全体の変化に適応するための表面的な制度や組織などは、宗教でも変わり得るでしょう。
それは必要なことであり、正当なことでもあるでしょう。

しかし、その部分にしか関心がない、あるいはそればかりを強調するとなると、それはバランスを欠いた態度だと言わなければなりません。
メディアはその性向から言って、宗教と家庭を正当に見るということが最も苦手な業界だと言っていいでしょうか。 

家庭も、大家族から核家族へ、子沢山から少子化へ、などという変化はあるにしても、基本は変わりません。
同性愛夫婦もあり、新しい家族の形態として認めようとなると、これは基本からの逸脱です。

変わらないものに不易の価値を認めること。
これは極めて重要なことだろうと思います。

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Admin:kitasendo