「主の命」として生きる
イエス様はわずか3年間、表立った伝道の道を歩まれた後、12弟子の一人であったユダの密告で逮捕され、2度の裁判を経て、あっという間に十字架の露と消えていかれました。
ゴルゴダの丘で十字架に掛かられたとき、2人の強盗がイエス様の左右にいて、十字架の同伴者となりました。
左の強盗は当時のイエス様に対する空気を代表するかのように罵詈雑言を投げかけましたが、右の強盗は「私はあなたをメシアだと信じます」と告白します。
イエス様はその言葉に一抹の慰めを感じられたかも知れませんが、ご自分の左右にともに歩んだ弟子が1人もいなかったことに、限りない寂しさと苦痛を感じておられたのではないかと推察します。
ユダは裏切り、残りの11人もみな身を隠し、物陰からイエス様の最期を遠巻きに見つめました。
イエス様はかつて、
「生きようとすれば死に、死のうとすれば生きる」
と語られましたが、弟子たちは端的に言って、みな「生きよう」としたのです。
その弟子たちが死んだのは、イエス様が十字架で亡くなられた後、霊的に復活され、聖霊とともに弟子たちに臨まれたときでした。
イエス様と聖霊との霊的な真の父母の愛を受けて、弟子たちは霊的に古い自分として死に、それと同時に、新しい霊的自我に生まれ変わったのです。
その後、彼らが肉体的にも死ぬ時が来ます。
弟子たちの多くは聖霊に満たされて爆発的な伝道を進め、初代教会を設立し、激しい迫害の中で過酷に殉教していったのです。
しかし弟子たちにとって、イエス様と聖霊によって新しく生まれ変わった後の命は、もはや「恩恵としての命」でした。
一度死んだ後に、天からもらった命だったからです。
天与の恩恵としての命を生きるとき、彼らにはもはや恐れるものはありませんでした。
死を恐れず、天によって生かされていると感じている者ほど、強い者もなく、恐ろしい者もないでしょう。
彼らはもはや「生きよう」とする者ではなく、「生かされている」者となったのです。
そのような人たちの力によって、キリスト教の強固な土台が据えられました。
今日、文鮮明先生は「七死復活」の道を行かれたと言います。
七番目の死は、ヘリコプター事故でした。
九死に一生を得て生還されたとき、文先生の愛の圏内にいる者のすべてが「古い自分として死に、新しく生まれ変わる」べきであると言われました。
しかし私は、二千年前の弟子たちのように、本当に生まれ変わったのだろうか?
いまだに私の中には、徒に「生きよう」とする自分が強く残っているのを感じざるを得ません。
一度死んだ命だから、恩恵としてもらった命は、精一杯主のために捧げる。
「自分の命」として生きるのではなく、「主の命」として生きる。
これが、一度死んだ後の本当の生き方と言ったらいいでしょうか。
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