「私」とは一体何者か
「父も息子も、母も娘も、それぞれみな一つの『役割』だ」
と、以前書きました。
と言うことは、本当の私は父でもなく、母でもなく、夫でも妻でもないということになります。
それでは、「私」とは一体何者なのでしょうか。
言い換えれば、私自身の真のアイデンティティは何か、ということです。
エックハルト・トールはその著書『ニュー・アース』の中で、
「あなたは相手だけでなく自分自身についても、何者であるかという観念的なイメージがある。あなた自身が相手とつきあっているのではなく、あなたが考えるあなたという人物が、あなたが考える相手という人物とつきあっている。
そのアイデンティティは要するに虚構だ。だから人間関係に多くの葛藤がつきまとうのも全然意外ではない」(p.107)
と書いています。
分かりやすく言い直すと、こういうことになるでしょう。
私が息子と関係を結ぶ時、私は自分が「父」であるという観念的なイメージを持ちます。
その私が、自分の息子だと考えている男の子と「親子関係」を結んでいると考えます。
しかし、私が自分を「父」であると考えるのも、男の子を自分の「息子」だと考えるのも、虚構だというのです。
そのように考えるから、お互いの間にさまざまな葛藤が起きてしまう・・・。
私が「父」の役を演じ、私から生まれた男の子が「息子」の役を演じているのは、確かです。
その役を通してしか、父の愛、息子の愛を体験することはできないでしょう。
しかし、私は息子に対しては「父」になり、妻に対しては「夫」になり、父母に対しては「息子」になるのですから、「父」も「夫」も「息子」も所詮は役であって、私の本質ではありません。
私がそのような自分の役を自分の本質と同一視してしまうと、関係の中に葛藤が生じやすくなるのです。
私は父として息子を一生懸命に愛そうとしますが、それだけでは息子は完全に満足することができません。
息子は心の奥で、父親に対して、
「父という役を演じるのもいいけど、それ以上に真の人間であってほしい。真の人間として、真の人間としての僕を愛してほしい」
と願っています。
真の人間でありながら父の役を演じることができれば一番良いでしょう。
しかし、真の人間になりきれないまま父になると、親子関係という形の上だけでの愛にとどまり、「人間同士」の愛を持てなくなるのです。
このような父は、下手をすると、自分の願望を子どもに託したり、子どもの生き方をコントロールしようとしたり、過度の保護や溺愛をしてしまったり、子どもが自立した後にも親としての強迫観念から逃れられなかったりします。
「真の人間」「私の本質」とは何でしょうか。
それは、人間関係の中では定義できません。
なぜなら、人間関係は相手によって役が変わる相対的なものだからです。
それゆえ、それは変わらない絶対的な存在との間でしか定義することができないでしょう。
旧約聖書でモーセに現れた神様が、ご自分を、
「私はあってある者だ。(I am who I am.)」
と自己紹介されています。
私の本質も、全く同様に
「あってある者だ」
と言っていいでしょう。
英語で人間を、human being と言います。
私とはまさに、人間(human)という、あってある者(being)です。
私は、あってある者として、父となり、夫となり、息子となってこそ、最善の役回りを演じることができると思います。
文先生を見ていると、まさにそのような立場で奥様やお子様に対しておられるように感じます。
妻を決して単なる自分の妻とは思っておられません。
お子様を単なる自分の子どもとも思っておられません。
自分の願うような姿に見えない時でも、決して自分の願い通りになれと、強制的に対されません。
必ず真の人間になると、無限に信じておられるように見えます。
それは、ご自身が human being であるように、妻や子どもたちもかけがえのない human being と見ておられるからだと、私には思えます。
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