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なぜ予定論的教訓を強調するのか

kitasendo
mosesjesus

つぎに、選ばれたある個人、あるいは、ある民族を中心とするみ旨成就に対する神の予定は絶対的なものでなく、相対的なものであるということを見せてくださった。すなわち神は復帰摂理の目的を達成されるために、ある人物、または、ある民族を立てられたとしても、彼らが自己の責任分担を完遂することができないときには、必ず新しい使命者を立てられて、その使命を継承させたのであった。
(原理講論 「イエスの路程が見せてくれた教訓」)

今夜の祈祷会で、原理講論のこの部分を訓読しながら、なにか今までにないものを感じました。

神様が人間を救済しようとする復帰摂理においては、いくつかの段階があります。

① 基台をつくるための段階には、アダムの家庭、ノアの家庭、アブラハムの家庭の代表的な3家庭。
② その土台の上に、モーセを中心とする民族的な段階。
③ そして、メシアとしてこられたイエス様を中心とする本番。
④ 最終的には、イエス様の使命を継承して来られる、延長摂理としての再臨主の段階。

過去のそれぞれの段階を説明した最後に、必ず「教訓」があります。
そこで必ず出てくるのが、予定論的な観点からの教訓です。

神のみ旨に対する予定は絶対的であるが、み旨成就に対する予定は相対的である。それゆえ、その目的のために選ばれた人物に対する予定も相対的である

なぜこの観点が繰り返し強調されるのだろうかと、以前から何となく気になってはいたのですが、今日感じたのは次のようなことでした。

この観点が繰り返されるということは、選ばれた人物がその責任を果たせず、繰り返し失敗してきたということを意味しています。
責任が大きければ大きいほど、その人物に対する試練も大きいので、責任を完遂するということも難しくなるのは当然です。

しかし神様の摂理は「難しかった」と言って終わるわけにはいかないものです。
誰かが最後には全部をまとめてケリを付けなければなりません。
その最後の責任は結局のところ、再臨主に求められるしかないでしょう。

そのような観点から原理講論を読むと、次のような点が見えてきます。

① 復帰摂理の過程において、神様は大抵の場合、選んだ人物に対する予定を変更せざるを得ず、その都度、別の人物に摂理を移していかざるを得なかった。
絶対的なものとして立てた創造原理に対して妥協することのできない神様は、それを担当する人物を替えるしかない。
その都度、「み旨の成就」を絶対的なものとして立てることのできない神様はどれほどもどかしく、苦衷を味わわれたことか。

② 過去の様々な人物の失敗を最終的に責任をもって収拾しなければならない方の歩まれた道はどのようなものであったか。
原理講論が書かれた時点では、その方の道はまだ半ばであったにせよ、責任を完遂するにおいて一点の失敗も許されず、実際、失敗をせずに(あるいはそれを克服して)歩んでこられた土台の上で、もうこれ以上神様に別の使命者を立てさせるようなことをしてはいけないという壮絶な決意が込められている。

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Akio Sato

サンフランシスコ在住日本人 

いつも、興味深く読ませて頂いています。
 私たちの信仰の原点はやはり[原理講論]ですね!

2011年01月28日 (Fri) 13:54
kitasendo
Admin:kitasendo