無言で通じるお月見気分

小林秀雄の『考えるヒント』に、「お月見」と題する一文があります。
ある人が若い部下たちを誘って、京都の嵯峨で酒の宴をもった。
その日がたまたま十五夜の夕であった。
平素は月見などに全く関心のない者たちだったが、誰かがふと山の方に目を向けると、それに釣られて他の誰かもまたそちらを見る。
月を待つ想いが誰の心にもあるのが、言わず語らずのうちに通じ合っている。
やがて、山の端に月が上ると、一座は、期せずしてお月見の気分に支配された。
暫くの間、誰の目も月に吸い寄せられ、誰も月のことしか言わない。
ここまでは、日本人ならほとんど違和感のない、当たり前の話。
ところが、この一座にたまたまスイスから来た客人が数人いたというのです。
彼らは驚いた。
一変したかに見える一座の雰囲気が、彼らにはどうしても理解できなかったのです。
その内の一人が、茫然と月を眺めている隣の日本人に、怪訝な顔つきで質問しました。
「今夜の月には何か異変があるのか?」
この、ある種笑える逸話を紹介しながら、小林氏はこう評しています。
「スイスの人だって、無論、自然の美しさを知らぬわけはなかったろうし、日本にはお月見の習慣があると説明すれば、理解しない事もあるまい。しかし、そんな事は、みな大雑把な話であり、心の深みにはいって行くと、自然についての感じ方の、私たちとはどうしても違う質がある」
そして、
「意識的なものの考え方が変わっても、意識出来ぬものの感じ方は容易に変わらない」
と言い、
「自分たちの感受性の質を変える自由のないのは、皮膚の色を変える自由がないのとよく似たところがある」
とまで言い切ります。
この随筆が朝日新聞に載ったのは、もうかれこれ半世紀近い昔です。
その間に、日本人の感受性は「容易に変わって」いないのかどうか。
最後の一文は、よほど思い切った言い回しだなと思います。
しかし、「意識できない感受性のようなもの」は確かにきわめて変わりにくい。
これには同意します。
私たちが特定の宗教教義とまで言わずとも、哲学でも文学でも、それに触れて「意識的なものの考え方」が変わるということは、いくらでもあり得ます。
しかし、私の心の根底にある「ものの感じ方の本性」とでも言うべきものは、容易に変わらないということを体験します。
例えば、宗教に触れて、無神論者が神様を信じるようになる。
現世主義者が来世を信じるようになる。
それは「意識的なものの考え方」においては、実に大きな変化です。
しかし、神を信じ、あの世を信じるようになったとしても、それでもなお「皮膚の色を変える」のと同じくらい難しいのが、無意識的に動く「ねじ曲がった本性」です。
これを統一原理で「堕落性本性」というのですが、これは私たちが無言のうちに通じる「お月見の気分」よりも、もっと深いところに定着している感受性と言っていいでしょう。
人が成功すれば、喜ぶよりも妬ましい。
何かが失敗すれば、その責任は自分の周辺に探す。
あの人だけは愛せないと、自ら愛の壁を作る。
こういう「感受性」は、日本文化とかスイス文化などと区別される以前の、共通の根底にあるものです。
万民共通の「感受性」です。
このようなねじ曲がった本性が矯正された暁、万国の人が集まって十五夜のお月見をするときには、どのような「気分」が無言のうちに通じるようになるのでしょうか。
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