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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

神の召命を聴くチャンス

2011/01/07
瞑想三昧 1
内田樹 聖書
seisho

「内田樹の研究室」というブログで「声を聴くことについて」と題する記事を読んで共感するところが多かったので、ご紹介しながら、そのポイントを考えてみようと思います。

内田氏が取り上げるのは新約聖書『コリント人への手紙』7:24。
「兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の前にいなさい

書信はこの聖句に先立つ部分で、
「夫は妻を離別してはならない。妻は夫と別れてはならない」
とも諭しています。

結婚したら、「そのまま」でいなさい、与えられた状況でベストを尽くせ、というのです。

一見すると、現状肯定の消極的・非発展的な教えのようにも見えます。

ところが、書信はさらに進みます。
「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません」(7:21)

ここで内田氏は、「聖書の教えはまことに過激である」と評します。

「奴隷の状態」においても、私たちは神の召命を聴くチャンスがある。「どこにいても」私たちは私たちにまっすぐに向かってくる「召命」の言葉を聴くチャンスがある。
神がそこにおいて私たちを「召した」ということは、「そこ」に私たちが果たすべき仕事があるからである。

私なりに言い換えれば、こんなふうでしょうか。

「私が今ここにある『状況』は、ただ単なる『偶然』とか、何かの人間的なレベルの『因果』などでは決してなく、神がそこに私を導いた『召命』だということである」

この「召命」という概念は、私たちに「現状認識のパラダイム」を転換するように促します。
私の現状認識から「偶然」という観念を排除し、どんな現状にも「必然的」な意味があると考える。
「必然」の根拠は明らかに「神様が私を善に向けて導いておられる」という信念です。

それでは、その「召命」の意図を、どのように悟ることができるのでしょうか。

だから、今、ここで、耳を澄ませなさいと聖書は教えている。神の召命は大音量で響き渡るわけではない。それはその人ひとりにしか聞こえない。そうでなければ、それを「召命」と呼ぶことはできまい。神の召命は微かな波動として、まわりの誰にも聞こえない、私だけが聞き届けることのできるシグナルとして私たちに触れる。だから、それに注意を傾けなさい。(内田)

「神の召命は大音量で響き渡るわけではない」という洞察から私が直感的に思い出すのは、旧約聖書で預言者エリヤを描いた次の箇所です。

主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。(列王紀上19:11~12)

雷鳴が鳴り渡り、暴風雨が吹き荒れる大自然の激しさを目のあたりにするとき、神様は荒々しく、恐ろしい方だと感じることもあります。
しかし私たち人間にパーソナルに関わられるとき、神様は限りなく静かで注意深い方でもあるようです。

私が今いるところで、必ず「私が果たすべき仕事」がある。

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Comments 1

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Yoshio

今日は、声を聞くことについて私の体験です。声を聞けないとか、聞こえないとか、気が付かないとか、色々あると思います。神様はどこか遠くにいらっしゃるとか、上のほうにいらしゃるとか、祭壇に向かっている時に出会うとかその次元を超えて、身近にいらしゃる神様を発見し、さらには自分の中に感じる神様を見出せばかなり聞こえてきます。仁進様の説教の根底はそれです。”私は神様の息子娘”と言う自覚でした。その障害になるのが、堕落性と堕落の習慣性です。これを打ち破らないと聞けないでしょう。そのように思ってます。一番今感じでいるのは自己中心です。根底に自己中心があります。一言でも正当化すれば自己中心がありますし、愛して疲れるその背後に自己中心愛があり、苦労して疲れる背後に自己愛があり、限りがありません。それらのものを取り去ってゆく過程で段々とすばやく良く聞こえてみました。私の場合かなり厳しい声です。乗り越えられないものがあったとしても、逃れることを許されません。厳しい道を行かせようとします。正当化という言葉もありませんでした。また曖昧では有りません。私の体験です。特にS様と共に歩んで感じました。

2011/01/08 (Sat) 15:24