神の召命を聴くチャンス
「内田樹の研究室」というブログで「声を聴くことについて」と題する記事を読んで共感するところが多かったので、ご紹介しながら、そのポイントを考えてみようと思います。
内田氏が取り上げるのは新約聖書『コリント人への手紙』7:24。
「兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の前にいなさい」
書信はこの聖句に先立つ部分で、
「夫は妻を離別してはならない。妻は夫と別れてはならない」
とも諭しています。
結婚したら、「そのまま」でいなさい、与えられた状況でベストを尽くせ、というのです。
一見すると、現状肯定の消極的・非発展的な教えのようにも見えます。
ところが、書信はさらに進みます。
「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません」(7:21)
ここで内田氏は、「聖書の教えはまことに過激である」と評します。
「奴隷の状態」においても、私たちは神の召命を聴くチャンスがある。「どこにいても」私たちは私たちにまっすぐに向かってくる「召命」の言葉を聴くチャンスがある。 神がそこにおいて私たちを「召した」ということは、「そこ」に私たちが果たすべき仕事があるからである。 |
私なりに言い換えれば、こんなふうでしょうか。
「私が今ここにある『状況』は、ただ単なる『偶然』とか、何かの人間的なレベルの『因果』などでは決してなく、神がそこに私を導いた『召命』だということである」
この「召命」という概念は、私たちに「現状認識のパラダイム」を転換するように促します。
私の現状認識から「偶然」という観念を排除し、どんな現状にも「必然的」な意味があると考える。
「必然」の根拠は明らかに「神様が私を善に向けて導いておられる」という信念です。
それでは、その「召命」の意図を、どのように悟ることができるのでしょうか。
だから、今、ここで、耳を澄ませなさいと聖書は教えている。神の召命は大音量で響き渡るわけではない。それはその人ひとりにしか聞こえない。そうでなければ、それを「召命」と呼ぶことはできまい。神の召命は微かな波動として、まわりの誰にも聞こえない、私だけが聞き届けることのできるシグナルとして私たちに触れる。だから、それに注意を傾けなさい。(内田) |
「神の召命は大音量で響き渡るわけではない」という洞察から私が直感的に思い出すのは、旧約聖書で預言者エリヤを描いた次の箇所です。
主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。(列王紀上19:11~12) |
雷鳴が鳴り渡り、暴風雨が吹き荒れる大自然の激しさを目のあたりにするとき、神様は荒々しく、恐ろしい方だと感じることもあります。
しかし私たち人間にパーソナルに関わられるとき、神様は限りなく静かで注意深い方でもあるようです。
私が今いるところで、必ず「私が果たすべき仕事」がある。
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